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中田英寿と16歳から深めた絆 歴代日本代表で果たした、“宮本恒靖にしかできない”役割

ドイツW杯で宮本が感じた、中田の少し異なる雰囲気

 日韓W杯の活躍で確固たる地位を築いた2人は、06年ドイツW杯でもチームの主力としてプレーした。だが宮本には、中田に02年の時とは少し異なる雰囲気を感じていた。

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「04年からヒデが怪我に苦しんで、サッカーを楽しみたいと思うタイプなのに、楽しみ切れていなかった。代表ではヒデがキャプテンだったけど、05年のイラン戦の前、久しぶりに合宿に参加してきた時、『キャプテンやってよ』と言ってきた。そんなことを言うタイプではないので、意外だった。チームでのヒデは、02年と同じ重要な選手というところは変わらなかったけど、ヒデ自身がサッカーに対していろいろ考えるところがあったのかなと思う」

 ドイツW杯、ブラジルに1-4で敗れてグループリーグ敗退が決まった時、引退を決意していた中田はピッチに仰向けになって倒れたまま動かなかった。中田に声をかける選手はいなかったが、宮本は累積警告で出場停止だったのにもかかわらず、ピッチに出て、声をかけに行った。それは、2人の16歳の時から始まった日本代表での戦いが終わった瞬間でもあった。

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■宮本恒靖 / Tsuneyasu Miyamoto

 1977年2月7日生まれ、大阪府出身。95年にガンバ大阪ユースからトップ昇格を果たし、1年目から出場機会を獲得。97年にはU-20日本代表主将としてワールドユースに出場する。シドニー五輪代表でもDF陣の中核を担うと、2000年にA代表デビュー。02年日韓W杯前は控えの立場だったが、ベルギー戦で森岡隆三が負傷したため緊急出場。鼻骨骨折した顔面を保護するフェイスガード姿が話題となり、「バットマン」と呼ばれて人気を博した。日韓W杯後に就任したジーコ監督からも信頼され、06年ドイツW杯にも出場。11年に現役引退後は、日本人の元プロサッカー選手で初めてFIFAマスターを取得した。古巣G大阪のトップチーム監督などを経て、現在は日本サッカー協会理事を務める。

(佐藤 俊 / Shun Sato)

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佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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