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中田英寿と16歳から深めた絆 歴代日本代表で果たした、“宮本恒靖にしかできない”役割

2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

16歳の時から2006年ドイツW杯まで日本代表で戦い続けた宮本恒靖(右)と中田英寿【写真:ロイター/アフロ】
16歳の時から2006年ドイツW杯まで日本代表で戦い続けた宮本恒靖(右)と中田英寿【写真:ロイター/アフロ】

「日韓W杯、20年後のレガシー」#28 宮本恒靖の回顧録・第3回

 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

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 日韓W杯に向けてフィリップ・トルシエ監督が率いた4年間は、日本サッカーの歴史を大きく変えた中田英寿の全盛期だった。当時の世界最高峰リーグであるイタリア・セリエAでプレーする絶対的エースの存在は、ともすれば若手の多いチームで浮いてしまうが、そこで融合に一役買ったのが宮本恒靖だ。「回顧録」第3回では、年代別代表からともに戦い、対等な立場で意見を交わしてきたからこそ生まれた2人の絆に迫る。(取材・文=佐藤 俊)

 ◇ ◇ ◇

 黒のフェイスガードをつけ、鬼気迫る姿でフラットスリーを統率し、グループリーグ第2戦のロシア戦(1-0)ではW杯史上初勝利を挙げ、決勝トーナメント進出に貢献した。

 だが、宮本恒靖がチームを統率したのはピッチの中だけではなかった。エキセントリックな監督の下、日本のエースをピッチ内外でフォローするという宮本にしかできない役割を果たしていた。

 その相手が、中田英寿だった。

「シドニー五輪最終予選の壮行試合だった日韓戦(1999年9月7日/4-1)の時に、初めてヒデ(中田)が来たけど、トップレベルでプレーしている選手がチームに入ってくるインパクトはかなり大きかった。でも、最初はみんな遠慮していて、ヒデもなんかやりづらさを感じているようだった。このままだと良くないな、なんとかしないと、と思いましたね」

 中田は98年フランスW杯後、セリエAのペルージャに移籍し、1年目から圧倒的な存在感を示していた。U-22日本代表(当時)に招集された時、誰もが中田の凄さに圧倒され、容易には近づけない感じになっていた。宮本は中田と同じ77年の早生まれで、U-17日本代表でもプレーした旧知の仲だった。チーム内で対等に中田にものが言えるのは宮本しかおらず、またキャプテンでもあったので必然的に“中田番”のような存在になっていった。

「下から一緒にやってきたのは自分しかいなかったから、自然とそんな感じになったと思う」

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佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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