就職3か月でトルシエの通訳へ ダバディの運命を変えた“Jリーグ愛”と「根拠なき自信」
初合宿の記者会見で味わったつらい経験
不思議な縁によって巡ってきた日本代表での仕事。言葉にしがたい喜びと熱意が湧き上がる一方、通訳としての不安も抱えていた。
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「大学でも一生懸命に日本語を勉強したから、日常会話は全然問題なかったし、読み書きもできたけど、現代的な日本語だったり、体育会系の皆さんが使うような言い回し、日本のサッカー用語などはまだ習得できていませんでした。サッカー雑誌やスポーツ新聞も読んでいたけど、あまりにも急に決まっただけに準備期間がなく、最初のJヴィレッジでの合宿は相当つらかったですね」
特につらい記憶として残るのが、練習後に行われたトルシエ監督の記者会見だった。
「合宿中に会見が2回くらいあって、30人から40人くらいの記者が来たんです。普通の合宿で、これだけの記者が来るなんてフランスではありえない。満員の会見場でトルシエさんの隣に座り、僕が訳したわけですが、正直その時はすべての質問が理解できなかったですね。記者が言いたいこと、聞きたいことは分かっても、例えばトルシエさんの答えが答えになっていなくて不意に突っ込まれた時などは、僕が戸惑ってしまいました。自信がないという雰囲気を醸し出していたから、記者も協会の方も『大丈夫かな』という表情をしていました」
合宿の最後、大仁技術委員長とトルシエ監督が“ダバディ通訳”の合否について話し合った。自身の将来について意見交換する2人の会話を、ダバディ氏本人が通訳するという奇妙な光景。大仁技術委員長は会見でのやり取りに不安を残すと指摘したものの、「サッカーの知識と運動量、そして一生懸命さ」が評価され、正式にトルシエ監督の通訳として採用された。
選手に対し、練習中に派手なアクションを交えながら、時に怒声を上げて指導するトルシエ監督と、その動きに合わせて情熱的に指示を出すダバディ氏の姿は、新生日本代表の光景としてすぐに定着する。Jヴィレッジ合宿からの約3年半、2002年日韓W杯へ向けた激動の日々がスタートした。
(第2回へ続く)
【第2回】「赤鬼」と呼ばれたトルシエの素顔 通訳が語る緻密さ、訳しながら“鳥肌が立った”瞬間
【第3回】中田英寿とトルシエ、日韓W杯「1年前の確執」 通訳がいま明かす“豪雨会談”の真相
【第4回】韓国が日本より「強かったとは思わない」 日韓W杯トルコ戦、ダバディが今も悔やむこと
■フローラン・ダバディ / Florent Dabadie
1974年11月1日生まれ、フランス・パリ出身。パリのINALCO(国立東洋言語文化学院)日本語学科で学び、卒業後の98年に来日し映画雑誌『プレミア』の編集部で働く。99年から日本代表のフィリップ・トルシエ監督の通訳を務め、2002年日韓W杯をスタッフの1人として戦った。フランス語、日本語など5か国語を操り、02年W杯後はスポーツ番組のキャスターや、フランス大使館のスポーツ・文化イベントの制作に関わるなど、多方面で活躍している。
(THE ANSWER編集部・谷沢 直也 / Naoya Tanizawa)