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中田英寿と日本代表で初共演「スーパーマンが来た」 若き日の稲本潤一が受けた衝撃

アーセナルでの悔しさが原動力「結果を出して目立ってやろうと」

「アーセナルで試合にまったく出られなかったので、この悔しさを晴らすにはW杯に出て活躍するしかないと思っていました。W杯でしっかり結果を出して目立ってやろう、自分の名前を売ろう、世界に自分の名前を知ってもらおうという気持ちがすごく強かった。(2006年)ドイツ・ワールドカップ、(10年)南アフリカ・ワールドカップとは違うモチベーションが日韓の時にはありました」

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 プレミアリーグの公式戦で試合に出られなかった鬱憤をW杯の舞台で晴らすべく、稲本は代表に集中した。そうして、23名のW杯メンバーに順当に選出された。チームは調整期間に入り、初戦のベルギーについての情報が選手に伝えられる。

「ミーティングで聞いたけど、ベルギーが強いとか、ロシアが凄いとか、自分はまったく分かっていなかった。誰がどこのチームでやっているとかも知らないし、興味がなかった。正直、どこのチームが来てもやれるとしか思っていなかったし、自分のことしか考えていなかった」

 W杯初戦のベルギー戦、稲本はベンゲルや世界に対して、やれることを証明していくことになる。

(第2回へ続く)
【第2回】日韓W杯で歴史的2ゴールも「活躍した印象ない」 稲本潤一が語る名場面誕生の瞬間
【第3回】「トルシエさんの考えは違った」 稲本潤一、20年後の今も抱く日韓W杯トルコ戦の悔恨

■稲本潤一 / Junichi Inamoto

 1979年9月18日生まれ、大阪府出身。ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、97年に当時のJリーグ最年少記録となる17歳6か月でデビューを果たす。年代別日本代表でも頭角を現し、99年ワールドユース準優勝、2000年シドニー五輪出場を経てA代表の主力に成長。迎えた02年日韓W杯では2ゴールを奪い、日本のベスト16進出に貢献した。W杯には3度出場し、日本代表通算82試合5得点。クラブでは01年のアーセナル移籍を皮切りに欧州7クラブを渡り歩き、10年に帰国後は川崎フロンターレ、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原でプレーした。今年1月から関東サッカーリーグ1部の南葛SCに所属している。

(佐藤 俊 / Shun Sato)

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佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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