創部100周年で大学日本一 慶大ラグビー部元主将の運命的キャリア、就職5年で訪れた転機
運命的だった慶應大学への進学
國學院久我山高在学中は全国制覇こそ果たせなかったが、1、2年でベスト4、3年はベスト8と全国レベルで実績を残し、190センチという長身もあり強豪大学からの誘いも受けた。最初に希望した進路は、國學院久我山から毎年のようにラグビー部員が進学していた同志社大学。しかし、ここでも入試が運命を決めることになった。
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「当時も早慶はなかなか狭き門で、誘いを受けていた慶應への思いはあったものの、部長の中村誠先生との面談では同志社に行きたいと希望を出しました。でも、同志社の受験日が、いつもは東京大会準決勝と重なっていたのが、その年だけ決勝と同じ日だった。チームでは、受験で決勝戦に出られないなら初戦から出場をやめておこうかという流れになったので、それでは一生後悔すると思い、志望校を慶應に変えて、チャレンジする決断をしたんです」
入試日と花園出場を懸けた東京大会決勝がバッティングしなければ、創部100周年の優勝主将も、その後の15丁目というプロジェクトも、町長の称号もなかったかもしれない。そして慶應を進路に決めたのは、当時慶應を率いていた故・上田昭夫監督からのラブレターだった。
元日本代表スクラムハーフ(SH)で、1985年度には監督として慶應を大学選手権制覇(明治大と両校優勝)に導いた上田監督は、創部100周年での大学日本一を託されて94年に母校に戻ってきた。入試難のために有望選手から敬遠されるケースも多かった慶應だったが、上田監督はこれぞと思った選手に自筆の手紙を送り、入試チャレンジを後押ししていた。その1人が國學院久我山の長身LOだった。
当時の慶應は、明治、早稲田、そして新興勢力の関東学院大の隆盛などで、高田の入学前年は対抗戦7位。入学1年目も同6位、2年は7位と、大学選手権進出さえできなかった。だが、ラブレター作戦など上田監督の積極的な勧誘もあって、慶應でラグビーをしたいという選手も増えていた。高田の1年後輩には、その後日本代表フルバック(FB)として活躍し、現在は母校監督を務める栗原徹、同期で元監督のスタンドオフ(SO)和田康二ら好素材が集まってきた。
高田がフォワード(FW)リーダーになった大学3年のシーズンは、対抗戦3位で13シーズンぶりに大学選手権へ進出。準決勝まで勝ち進み、ライバル明治大に、インジュアリータイムの逆転で18-24と敗れて決勝進出を逃した。翌99年度は、上田監督としても勝負となった創部100周年のシーズン。そこで、部員投票を受けて監督から主将に任命された高田主将だったが、100周年での優勝というプレッシャーは、予想外になかったという。