本当は就職の為に進んだ大学 「辞めたい」と何度も思った村上茉愛が東京五輪で掴んだ夢
五輪延期で切れた糸、何度も「体操を辞めたい」と考えた
「体は酷使しなければいけないし、きっといろんなものを犠牲にして取り組まなければいけないと覚悟しました。その覚悟ができたのも、リオ五輪の悔しさがあったからです」
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東京五輪に向けてばく進する村上は、翌年、全日本選手権の個人総合、NHK杯個人総合で優勝を決める。さらに世界選手権では、種目別ゆかで金メダルを獲得。「ゆかの村上」の存在感を世界に知らしめた。その後も結果を出し続ける村上に、「東京でメダル」の期待値はグッと上がった。
ところが19年、腰を痛める。一時は歩くことも困難な状態となり、世界選手権の日本代表からも外れた。さらに昨年3月、世界に拡大する新型コロナウイルスの感染によって、東京五輪の1年の延期が決定。張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「それまでもちょっとずつケガが続き、なかなか思うような練習もできないなか、腰を痛めて代表から外れました。この時、競技生活の節目が来たんだな、私のピークは終わったんだ、という気持ちになった」
19~21年の間、「体操を辞めたい。辞めた方がいい」と幾度となく考えた。一度は、引退を決意したこともあった。
「東京大会を目指してやってきたけれど、体操をやっている自分の2年後、3年後のイメージが浮かばなかったので、もう終わろう、と思いました。でも、お休みしている間に、本当にたくさんの方から、『演技が見たいからもう一回頑張ってほしい』と言われたことで、もう一回、五輪を目指そうと思うようになりました」
その後も、自分よりも若い選手を側で見ながら、「あぁ、やっぱり私は年齢が上なんだな」と痛感する日々だった、という。
「まず、毎日調子がいいということがない。ちょっと試合で頑張ると、昔はさらに上にいけたのに、今は体に辛さをまとう。現実として若くはないんだ、と受け入れました。自分のなかでは、毎日動けている、若かった時のいいイメージがあります。昔は体操に限らず、私生活も発言も、若さと勢いでいけたけれど、この2年は経験で補ってきた。動けなくなると、心と体と頭と、毎日向き合いながら、いいイメージとすり合わせてきました」
そして迎えた今年5月。東京五輪の代表選考を兼ねたNHK杯で、村上は3年ぶりに優勝。五輪代表の座を、今度こそ自ら掴み取った。
一度は体操を諦めたところから復活し、銅メダルという結果を出したこの3年間。「体操で、一番下と上を味わった」と振り返る。
「ケガをして諦めそうになったし、辛い、辞めたい、と気持ちが逃げてしまい、練習ができなくなった時期もありました。それでも、結果を残せたのは、体操をやりたいという気持ち、そして最終的には、道の先にある『五輪』という目標が変わらなかったから。その道からブレないこと、貫き通したことが大事だったと思います」
銅メダルを決めた演技のラスト。村上は、後方屈身2回宙返りを、高く、力強く、跳んだ。「ゆかの魅力は作品に、選手一人ひとりの個性、ストーリーを描けること」。ピタリと決まった着地。まさに、夢を掴んだ彼女の体操人生を語るような、フィナーレだ。
■村上茉愛 / Mai Murakami
日体クラブ所属。1996年生まれ、神奈川県出身。2歳から体操を始め、小学6年時で、シニア選手でも難しいといわれるH難度の「シリバス」を成功させる。10年、中学2年で全日本選手権種目別ゆかで初の日本一に。13年、初出場の世界選手権で女子種目別ゆか4位入賞。15年に日体大入学。16年リオ五輪では団体総合で4位入賞を果たし、翌17年、世界選手権種目別ゆかで優勝する。2019年4月、日体大卒業後、新設された日体クラブに所属。東京五輪では、女子団体総合で5位、女子個人総合で日本歴代最高の5位、種目別ゆかでは3位となり、日本女子種目別で史上初のメダルを獲得した。
(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)