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環境は変えられない― 離島で生まれ育った岩政大樹がプロサッカー選手になれた理由

離島ならではの距離という悩みは、家族の協力で乗り越えたと語った【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
離島ならではの距離という悩みは、家族の協力で乗り越えたと語った【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】

離島ならではの距離というネック 家族の協力で乗り越えた

 大島スポーツ少年団(以下、大島スポ少)での練習は水曜日、土曜日、日曜日。ただ、岩政氏がいた当時は少し特殊だったようで、大島スポ少として出場できる大会は同じ周東地区の大会のみ。2か月に1回開催される周東リーグと呼ばれるリーグ戦に参加するだけだった。次の県大会に出場するときには周東地区から1チーム、周東リーグで活躍している子供たちを集めた選抜チームのような周東FCというチームを作って出場していた。岩政氏は周りよりも少しだけ遅い、小学5年生の途中で声がかかり、周東FCの一員になった。

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「今思えば、ようやっていたなと思いますね(苦笑)」と振り返る当時のトレーニングスケジュールは、火曜日が周東FC、水曜日が大島スポ少、木曜日が周東FC、そして土日は午前が周東FC、午後が大島スポ少という2部練習だった。

 岩政氏の場合、ただ2チームに所属していたことの大変さだけではなかった。周東FCの練習場は島外にあるため、車で片道40分の道のりだ。大島スポ少に通うのと同じく、家族の協力がなくてはサッカーを続けることはできなかった。

「小学校の授業が終わるタイミングで学校の駐車場におじいちゃんがトラックで待っていて、授業が終わったら、おじいちゃんが40分かけて島の外まで連れていってくれました。練習後は、仕事を終えた両親が迎えに来ていて、両親の車で自宅に帰る。今考えると、おじいちゃんは当時60代で、僕は送ってもらうだけだったけど、おじいちゃんは僕をおろしたあとに、また島に帰っていたわけですから。本当に家族の協力がなければ、サッカーを続けることはできませんでした。実際に、周りにはやりたい子もいたし、親を説得すると言っていた子もいたんですが、結局はできなかった。そういう意味では、僕は恵まれていたんだなと思います」

 離島で生まれ育ったというだけで、かかってしまう余分な負担。結果的にプロサッカー選手になったことで報われた部分も大きいが、家族にとっては、岩政少年に将来性を感じていたからこそのサポートだったのだろうか。その問いに、岩政氏は「子供がやりたいことをやらせてあげたいためだけにやってくれていたと思います」と否定した。

「当時からサッカーはうまくはないけど、運動能力はまあまああって、体は大きかった」。ディフェンスが安定しなければ試合には勝てない。当時の監督の方針で、運動能力の高い選手をセンターバックに置いた。そのため、岩政氏はサッカーを始めた当初からずっとセンターバックを任された。当時の立ち位置は、「大島スポ少では中心選手でしたけど、周東FCではギリギリレギュラーという感じ。周東FCでの中心選手は他にいて、僕は一番後ろから体を張って守って、声を出してチームを鼓舞することでチームに貢献していた」という。

 すでにこの頃には、現役時代の岩政大樹のプレースタイルが確立されていた。

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