我が子の「厳しい指導者」を務める親へ 三宅宏実が“喧嘩と尊重”で築いた親子関係
父の指導を前に家出、三宅宏実が逃げ出した過去とは「遠回りの価値は凄く大きい」
埼玉栄高に進学しても、日本代表に入って国際大会に出場しても、父がコーチとして同行。逃げ場はない。学校でも、家でも指導者がいる環境だった。大学、社会人になっても師弟関係は変わらない。父は女子日本代表の監督に就任し、いつもそばにいた。
否が応でも距離が縮まる環境だが、三宅は意識していたことがある。チームの練習場では父とあまり話をせず、距離をとった。「親子だからこそひいき目に見られてしまう。周りの選手にどうしても気を使いました。普通に話をしていたとしても、よく見られない場合もあると思います」。チームメイトの前では敬語。周囲と同じく「監督」と呼んだ。
「そういったことを自然にできないもどかしさ、違和感みたいなものも正直ありましたね。でも、それは建前上きちんとしないと、なあなあになってしまう。きちんとした言葉遣いをできるだけ心がけていました」
近すぎず、かといって遠いわけでもない。自分なりに空気を察知しながら絶妙な距離を保ってきた。
ただ、衝突は日常茶飯事だった。数えきれないうちの一つが2009年3月の出来事。メダル獲得を目指した前年の北京五輪は6位に終わり、さらなる向上が必要だと歯を食いしばっていた時期だ。度重なる故障で思うように練習ができない状態。父は熱心な指導を毎日続けてくれたが、感謝の思いがあるからこそこの環境に耐えられなかった。
「毎日練習を見てくれていましたが、それがもの凄いストレスだったんですね。その繰り返しがもうたまらなくて逃げました。『もう嫌だな』と思って」
向かった先は知人のいる沖縄。現地で練習を続けたが「一人じゃ何もできない。いつも支えられているんだな」と改めて痛感した。頭を整理し、1週間後に控えていた全日本合宿に合わせて帰省を決意。父にはメールで報告したが「ごめんなさい」とは恥ずかしくて言えなかった。
それでも変わらず受け入れてくれた父。20年間の指導の中で一貫していたのは、あえて「遠回り」をさせることだった。三宅は意見が食い違うと、自分が正解だと思うやり方にトライ。この繰り返しの中で父の偉大さ、狙いに気づかされたという。
「父が言ったことにプイっと背を向けて正反対のことをするのですが、もの凄く遠回りします。結局、父が言っていたところにたどり着く。でも、自分で痛い思いをしないとわからないので、遠回りしてでも得るものの価値は凄く大きいと思います。その繰り返しですね」
現役の年数だけでいえば、今や三宅の方が長く、五輪で獲得したメダルの色は1つ上の銀色だ。「父よりいい色。これで自分の意見を言えるのかな」なんていう考えが頭をよぎったが、そんな優越感は日々の練習で簡単に吹き飛ばされた。
「調子に乗った自分がいたのですが、結果的には『色なんかじゃない』と。私はまだまだウエイトリフティングを知らないですし、目の前のことに必死になりすぎて先読みすることができず、結果的に失敗する時があるんですね。それを父は全部計算しているんです。父が言ったことは絶対に当たるので、やっぱり父の経験値にはかなわないです。もう長さじゃないですね。75年生きてきた方に勝とうなんておこがましい」