パリ五輪まで「貯金を崩して生活」 夢を叶えた日本人女性レフェリー、憧れの舞台を目指し決めた覚悟
1つの大会に選出されると「必ず2週間は拘束される」
――桑井さんは明確に五輪を目標に掲げ、審判員の道を歩み始めました。明井さん、山田さんは五輪で笛を吹くことを意識したことはありましたか?
明井「駆け出しの頃、身近にオリンピックレフェリーがいたので、自分もその舞台に立てたらいいなとは思っていました。ただ、本当の意味で目指そうと考えたのは、東京開催が決まった時です。私も学生時代はバレーボールの競技者でしたが、選手としては出場できるレベルではなかった。でも審判員として参加できる可能性があるならば挑戦したい、と思い始めました」
山田「私も一緒で、東京開催が決まるまでの約20年間は、五輪を目指そうとは考えたこともなかったです。私の直の先輩に相馬知恵子さんという方がいらして、アテネ大会からリオ大会まで4大会連続で五輪の審判員に選出されていたんですね。目指すと決めたら最後、相馬さんに続く覚悟を持って取り組まなくてはいけない。その高いハードルを越える覚悟を持てなくて、『五輪を目指す』なんて言えませんでした。
東京開催が決定した当時、五輪で指名される条件を満たす実績を積み上げるには、間に合うか否かギリギリのタイミングでした。正直、すごく難しいとは思いましたが、選ばれなくても目指してみようと覚悟が決まった。それで、転職もしました」
明井「転職をされたんですね」
山田「はい、東京大会が決定したのが2013年。それから約6年で、オリンピック審判員に選出されるにはどうすればいいのか。それを最優先に考え、シフトチェンジしました」
明井「一般的な仕事ですと、やはり試合や大会のたびに休みを取ることが難しい。でも、大会のために仕事を休まないと、実績を積むことができない。おそらくどの競技においても、五輪を目指すうえで高いハードルです。
バレーボールもシーズン中は毎週末、試合になりますし、国際審判員として世界を目指すのであれば、まずアジアの大会で実績を積まないと、国際大会の審判員にノミネーションされません」
山田「そうですよね、1つの大会に選出されると、必ず2週間は拘束されますから。その間、休んでも続けられる仕事を探すのは本当に難しい。
国内・国際大会で良い評価がもらえないと、五輪のアポイントは得られません。特にホッケーはヨーロッパが強く、審判員を評価するアンパイアマネージャー(審判員の指導、評価を行う国際ホッケー連盟の仕事)もヨーロッパに多い。大会で笛を吹かないことには次の大会のアポイントメントにも繋がらないため、アジアの審判員はどうしても地理的なビハインドがあり、見てもらう機会も限られます」
桑井「ラグビーも同じです。強豪国の多いヨーロッパやオセアニア地域と比べると、見てもらう機会は少ないです。私は現役時代、デパートに勤務していましたが、練習のため午前勤務のみなど、融通をきかせていただきながら働いていました。でもレフェリーに転身後、退職しました。やはり、やるからには『仕事があるから遠征や大会に行けません』と言うのだけは嫌だったので、フリーという立場で続けました。
退職させていただいたデパートや現役からサポートしてくださっていた企業さんもいましたが、それだけでは生活を成り立たせるまでは難しかったです。貯金を崩したりしながら生活をしても良いと思っていましたし、パリ大会まではラグビーにすべてを捧げたい想いで、レフェリーの活動に集中しました。その気持ちが伝わりラグビーの解説やイベント、新たなスポンサーなど応援してくださる方が増えました」
明井「バレーボールは代々、五輪で日本人審判員が必ず笛を吹いてきたんですね。ところが、リオ大会では1人も選出されず、代々引き継がれた伝統が途切れてしまったことがありました。
当時、我々審判員は皆、その責任を重く受け止めました。でも逆に、当時受けたショックは五輪を目指すモチベーションにもなった。目標をしっかり見据えて頑張ろうという、強い想いに繋がったと感じています」
(後編へ続く)
■明井寿枝(みょうい・すみえ)
1973年1月17日生まれ、北海道出身。中学時代、バレーボール漫画『アタックNo.1』に影響されて入部。日本女子体育大2年時に選手としての限界を感じ、マネジャーに。大学の練習試合で初めて笛を吹く。97年から北海道で高校保健体育教諭となり、現在、石狩翔陽高で教壇に立ちバレーボール顧問を務める。2007年に国際審判員資格取得。18、22年の女子世界選手権、19年W杯、19、21、23年ネーションズリーグなどで審判員を歴任。五輪は21年東京大会、24年パリ大会に参加。パリ大会では6試合で主審を務めた。
■山田恵美(やまだ・えみ)
1980年1月8日生まれ、長野県出身。小学生の時に兄の影響でホッケーを始める。山梨学院大3年時に国内B級審判員の資格を取得。2004年に国際審判員になる。4度の五輪(04年アテネ大会~16年リオデジャネイロ大会)で審判を務めた相馬千恵子氏の指導を受け、18年ロンドンW杯後、国際審判員の最高ランク『オリンピックパネル』に昇格。五輪は21年東京大会、24年パリ大会に参加し、パリ大会では4試合で主審を務めた。23年にはフル代表による国際試合を100試合経験した審判に国際ホッケー連盟から送られる、ゴールデンホイッスルを受賞(日本人として3人目)。
■桑井亜乃(くわい・あの)
1989年10月20日生まれ、北海道出身。小学生から陸上を始め、帯広農業高2年時に円盤投げで国体5位入賞。中京大学まで陸上部に所属するが、大学卒業後の2012年にラグビーに転向。13年に7人制ラグビー女子日本代表として初キャップを刻むと、16年リオデジャネイロ五輪に出場し日本初のトライを決めた。21年8月に現役を引退し、レフェリーに転身。24年パリ五輪のマッチオフィシャル(審判団)23人の中に選出され、ラグビー界で初めて選手そして審判として五輪のピッチに立った。パリ大会では2試合を担当。7人制ラグビーの代表キャップ「31」。
※独立行政法人日本スポーツ振興センター競技強化支援事業
(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)