女子バレー選手から日本バスケ会長に 我流の人生で三屋裕子も聞いた「女のくせに」の声
競泳の元五輪代表選手で、引退後は国連児童基金(ユニセフ)の職員や一般社団法人「SDGs in Sports」代表としてスポーツ界の多様性やSDGs推進の活動をしている井本直歩子さんの「THE ANSWER」対談連載。毎回、スポーツ界の要人、選手、指導者、専門家らを迎え、「スポーツとジェンダー」をテーマとして、様々な視点で“これまで”と“これから”を語る。第3回のゲストは日本の中央競技団体唯一の女性会長である三屋裕子さん(日本バスケットボール協会会長)。バレーボールの選手引退後のキャリアやスポーツ界の女性リーダー育成について、お互いの考えを交わした。(取材・構成=長島 恭子)
連載第3回「競泳アトランタ五輪代表・井本直歩子×日本バスケ協会会長・三屋裕子」前編
競泳の元五輪代表選手で、引退後は国連児童基金(ユニセフ)の職員や一般社団法人「SDGs in Sports」代表としてスポーツ界の多様性やSDGs推進の活動をしている井本直歩子さんの「THE ANSWER」対談連載。毎回、スポーツ界の要人、選手、指導者、専門家らを迎え、「スポーツとジェンダー」をテーマとして、様々な視点で“これまで”と“これから”を語る。第3回のゲストは日本の中央競技団体唯一の女性会長である三屋裕子さん(日本バスケットボール協会会長)。バレーボールの選手引退後のキャリアやスポーツ界の女性リーダー育成について、お互いの考えを交わした。(取材・構成=長島 恭子)
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井本「まず、三屋さんのこれまでの異色のキャリア・トランジションについて伺います。84年ロサンゼルス五輪でメダルを獲得後、スパッと選手を引退し、教員になられた。当時では非常に珍しいトランジションだったと思います」
三屋「そうですね。私は五輪の2週間後には学校の先生になっていました。現役時代は、国内外へ遠征をしながら教員採用試験の勉強をしていましたし、採用試験を受けるために、遠征先のブラジルから一人、帰国したこともありました。そういったチャレンジを許してもらえたことは、ものすごくありがたかったですし、今の私がある最大の理由です」
井本「スポーツの世界では常に脚光を浴びていて、スターでした。いきなり別の世界に飛び込むことに、葛藤はなかったですか?」
三屋「それはないですね。自分で決めたことですから。当時のバレーボール界は、力のある選手は高校を卒業したら実業団に行くのが本流でした。でも私は、選手・三屋裕子にとってはバレーボールが『一丁目一番地』ですが、バレーを終えた後の人生のほうが長い、と思ったんですね。それで、国立大学(筑波大)に行くという、あの頃ではあり得ない選択、我流の生き方を選びました。
私はバレーボールの世界を離れたときに初めて、世の中には五輪を観ない人、スポーツに対してマイナスのイメージを持つ人がこんなにもたくさんいるのだ、と知りました。また、時々、テレビ番組に呼ばれ、コメンテーターとしてスポーツに限らず発言をする機会があったのですが、『女のくせに』『運動しかやってこなかったくせに』という“何々のくせに”という声が多かったですね」
井本「それはカルチャーショックですね」
三屋「そうですね。当時はSNSがなく、電話と投書でそれらの声が届くぐらいだったので、心が折れることはなかったのですが。バレーボールも五輪もすべて捨てた三屋裕子は、ゼロどころかマイナスの評価からスタートしたようなものでした。選手時代は頑張れ、頑張れ、と応援されてきましたし、それが全ての世界だった私は、なんて小さなところにいたのかと、思い知りました」
井本「女性やスポーツ選手に対するバイアスのようなものも、今よりも根強かったんでしょうね。三屋さんの経歴を拝見すると、競技団体でトップを務められるほか、様々な企業の代表取締役、社外取締役を歴任されています。スポーツ界に限らず、ビジネス界での経験も豊富ですよね」
三屋「いやいや、分不相応なときもありましたし、揉まれて苦しんだことも多いですよ。ただ、役目を全うし、一区切りついたときには、過去の自分にはなかった、たくさんのものが残りました。もちろん、イヤな思い出、辛い思い出も同じぐらいありますが、役目にかけた時間とエネルギーは、自分のなかに蓄積されています。役目を終えたと同時にそれらをゼロにせず、次にどう生かしたかだけで、ここまで来たのかなと思います」