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野球ボールを爆弾と怪しまれたイラン監督時代 月収3万円足らず、異文化で戦った日本人

イランで“真の代表作り”に奔走した色川氏(右上)。異文化で受け入れられたのは日本の先人のおかげと感謝する【写真:球団提供】
イランで“真の代表作り”に奔走した色川氏(右上)。異文化で受け入れられたのは日本の先人のおかげと感謝する【写真:球団提供】

イラン社会での受け入れは「日本の先人」のおかげ

 当時、イランの野球界は一枚岩ではなかった。最も強かった首都テヘランのチームの監督が、代表監督も兼務する状態。イラン代表=テヘラン代表と言えるほどで「その監督に気に入られることが代表選手になる道だった」。当然、反発する選手や指導者もいたが、権力に立ち向かった結果、憂き目を見ることがほとんどだったという。

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「その構図ができてしまって、野球を諦めている人たちが多かった」

 色川氏が尽力したのが「本当のイラン代表」を作ること。まだ代表監督になる保証がない段階から13都市を駆け巡り、その町の“ボス”に野球の可能性を伝える。地道な活動がやがて実った。

 晴れて代表監督になった色川氏は2015年2月、16年間で国際大会1勝しかしていなかったイランを西アジアカップ準優勝に導いた。本編で紹介した通り、月収200ドル(現在で約2万7000円)の厳しい監督業で掴んだ栄誉だった。

 イランで活動する中で、日本の先人に感謝したことは数知れない。

 保守的なイラン社会で、若き日本人の自分が受け入れてもらえたのはなぜか。陰口を叩かれることもあったが、日本人と分かると相手の態度が変わった。

「僕はイラン人なんか誰も知らないかったし、彼らだって僕が何者かなんて分からなかったと思います。でも、日本人という理由だけでおもてなしを受けられる。これはどこかの大先輩が何かを彼らに残したということ。それが100年後か、何十年後か分からないですが、僕を助けてくれた。この辺りから、僕は次世代の子がもっといい待遇をしてもらえるようにと考えてやってきました」

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