“復興の街”釜石に流れた君が代 日本を後押しした「熱」と、歴史的1勝の意味
はまゆりのイラストに込められた思いとは
新幹線が停まるのは1時間に1度程度の新花巻駅から、釜石線で2時間。終着駅に降りると、こんなメッセージが出迎えてくれる。
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「ようこそ!! 鉄と魚とラグビーの街 釜石へ」
釜石の名物の1つが、飲み屋街「呑ん兵衛横丁」だった。この太平洋岸の小さな町に不慣れな旅人も歓迎する「ようこそ―」の看板は、いつしか釜石のシンボルになっていた。震災後の津波に、横丁の賑わいも、常連の笑顔も、そして看板も飲み込まれてしまったが、復興が進む中で、駅前に鎮座する日本製鉄(旧新日鉄)の巨大な社屋の壁に、あの言葉が再現されたのだ。
そして“言葉”の片隅には、もう一つの釜石の誇りが描かれていた。
市の花でもある、はまゆりのイラストだ。素朴ながら、凛とした気高さをたたえる花。それは、あの北の鉄人・新日鉄釜石ラグビー部のエンブレムでもあった。
ラグビージャージーやチームのブレザーに刺繍されるエンブレムは、ラグビー選手にとっては、自分自身とチームの誇りだ。日本代表のジャージーは桜の花、イングランド代表は15世紀のバラ戦争由縁の赤い薔薇。自分たちのアイデンティティーが、心臓付近に縫い込まれている。北の鉄人と呼ばれて全国社会人大会、日本選手権7連覇という伝説を築いた男たちは、故郷の山野や海、そして共に暮らす家族や仲間への思いを、はまゆりに込めて戦い続けた。
高炉の火が消え、ラグビー部の輝かしいときも過去の歴史に転じた。だが、何もかもが失われたような悲劇の中で、釜石市民は立ち上がった。震災直後には、多くの反対意見もあったワールドカップ開催立候補や復興スタジアムの建設だったが、釜石シーウェイブスの桜庭吉彦GMは、当時をこう振り返る。
「最初は、震災復興とワールドカップのどっちを優先させるかといえば、やはり震災復興ということのほうが大きかった。でも、実際に被災した人たちがワールドカップを通じて地域の未来を作っていくんだという取り組みをしているのを見ている中で、必要なんじゃないかなという気持ちに代わっていきましたね」
夢を見続ける、前進し続ける――。物静かな釜石の人々だが、この思いだけは頑固なまでに失わなかった。震災から2年後の13年に釜石を訪れたときは、震災以前の中心街は更地のように何もなかった。津波に流されなかった鉄骨と、一面だけが残されたビルの壁が、その破壊力のすさまじさを、さらに際立たせていた。
だが、初めて日本代表を迎えた釜石は大きく変貌していた。13年当時は建設計画の段階だった巨大なイオンモールにいまは市民が集まり、中心街の歩道にはワールドカップを歓迎する幟がはためいた。6年前の更地は、商店や民家で埋まっていた。
13年には、見上げるように瓦礫が山積みされ、手つかずのためにその表層を雑草に覆われていたのが現在の復興スタジアムだった。