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サッカーで「劇的に伸びた」英語力 元Jリーガー中村亮が米国で起業を決意した瞬間

1993年の開幕から30シーズン目を迎えているJリーグは、これまで時代を彩るスターを生み出してきた一方、毎年多くの選手が現役生活に別れを告げ、人生の選択を迫られてきた。期待の大卒ルーキーとして2004年にFC東京に加入した中村亮は、怪我によりわずか2年でスパイクを脱いだ。引退から8年後、米国留学をサポートする会社を起業したが、それは自身の経験から導き出されたものだった。米国でセカンドキャリアのアイデアを見つけ、新たな挑戦をスタートさせた日々を振り返る。(取材・文=加部 究)

米国で起業した当時の中村亮氏(中央)【写真:本人提供】
米国で起業した当時の中村亮氏(中央)【写真:本人提供】

「元Jリーガー社長のキャリア選択」第3回、サッカーに代わる武器を求めて米国留学

 1993年の開幕から30シーズン目を迎えているJリーグは、これまで時代を彩るスターを生み出してきた一方、毎年多くの選手が現役生活に別れを告げ、人生の選択を迫られてきた。期待の大卒ルーキーとして2004年にFC東京に加入した中村亮は、怪我によりわずか2年でスパイクを脱いだ。引退から8年後、米国留学をサポートする会社を起業したが、それは自身の経験から導き出されたものだった。米国でセカンドキャリアのアイデアを見つけ、新たな挑戦をスタートさせた日々を振り返る。(取材・文=加部 究)

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 サイズにもフィジカルにも利き足にも特徴を持つ中村亮は、順調に育てば大化けの可能性を秘めた左サイドバックだったはずだ。だが中学時代に痛めた膝が、遂にプロ入り直後に悲鳴を上げ、わずか2年間でJリーガー生活を終えた。

 その後、約2年間の教員生活を経て、中村は米国留学を決断する。

「まずサッカーに代わる武器を身につけたかった。次に新しい挑戦をするには環境を変えないと厳しいな、と感じていました。首都圏のチームでプロになったことで、普通ならお会いできない異業種の方々と知り合うことができて、それは大きなメリットでした。しかし一方で新しい挑戦をするには、元Jリーガーという肩書が足かせになる部分もありました。長くプロを続けてきたわけではないので、生活をしていくのも楽ではなかったのに、乗っている車にも気を遣わなければならなかった」

 教員を辞めた中村は、まず国内で語学学校へ通い始め、現役時代の伝手でモデルなどの芸能活動やトレーナーの仕事などで貯蓄した。

「ずっとサッカー漬けの学生時代だったので、英語も最初は中学1年生レベル。be動詞から始めたのを覚えています。2年間ほど続け、ようやく中学の復習が終わったところでロス(ロサンゼルス)の語学学校に入学しました」

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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