女子ホッケー湯田葉月、豪州挑戦の理由 五輪落選後に下した「自分のために」戦う決断
コロナ禍で狂い始めた歯車「この4年間は、なんやったんやろ」
2017年、さくらジャパンの監督に、リオ五輪で男子カナダ代表を率いたアンソニー・ファリー(オーストラリア)が就任。翌18年のアジア競技大会(ジャカルタ)で優勝し、東京五輪メダル獲得への期待は一気に高まった。
ところが、迎えた20年。新型コロナウイルスによる世界的パンデミックにより、東京五輪の開催延期が決定。それから、歯車が少しずつ狂い始める。
チームを率いてきたファリー監督は同年10月、五輪延期に伴う契約満了につき退任。後任となった元スペイン代表のチャビ・アルナウ監督は、コロナ禍による入国制限の影響で来日できず、21年1月の代表選考会は監督が滞在するベルギーから、リモートで行う事態となった。
「4年間、ファリー監督の下、オーストラリアのホッケーを続け、チームメイト間の信頼関係も築いてきたところから一転。それからですね、気持ちがぐちゃぐちゃになったのは。
リモートでの選考会は、練習試合をライブ動画で見る形で行われました。選手たちの実力を判定できるようなものではなかったし、納得いかなった」
湯田はこの選考会をパスし、代表に残った。しかし、その後もチーム作りは遅れに遅れ、監督が代表チームに合流したのは3月。予定していた海外遠征や海外チームとの試合も中止になるなか、代表合宿、そして最終選考へ――。6月、発表された東京五輪に臨むさくらジャパン16名に、湯田の名前はなかった。
「1週間の合宿を経て、代表から落ちて。4年間、熱を注いできましたが、あぁ、こういう終わり方をするんや、って思いました。この4年間は、なんやったんやろ、って」