「迷いはなかった」 遠藤保仁、兄の背中を追った必然の高校選択「選手権でNo.1に」
トップアスリートはいかにしてキャリアを選択してきたのか。日本代表歴代最多となる国際Aマッチ152試合出場、ワールドカップ(W杯)にも3度出場しているMF遠藤保仁(ジュビロ磐田)が、自身の進路選択を回想。41歳のレジェンドは、地元の名門・鹿児島実業高校への進学や横浜フリューゲルス入団を、自身の意志を貫いて決断しながら、偉大なキャリアを築き上げてきた。(取材・文=佐藤 俊)
自然の流れの中で決断した地元の名門校進学
トップアスリートはいかにしてキャリアを選択してきたのか。日本代表歴代最多となる国際Aマッチ152試合出場、ワールドカップ(W杯)にも3度出場しているMF遠藤保仁(ジュビロ磐田)が、自身の進路選択を回想。41歳のレジェンドは、地元の名門・鹿児島実業高校への進学や横浜フリューゲルス入団を、自身の意志を貫いて決断しながら、偉大なキャリアを築き上げてきた。(取材・文=佐藤 俊)
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中学でボールを追う選手にとって、進学先の選択は自らのサッカー人生を大きく左右する決断になる。Jリーグでプレーしている選手、日本代表で活躍している選手もそうした選択の時を経て、チャンスを掴み、プロサッカー選手になった。今年、プロ生活24年目のシーズンを戦っているMF遠藤保仁も中学3年の時、進路を決断しなければならなかった。
「僕は、進路について迷いはなかったです。中3の夏を過ぎて、最後の大会が終わった時には鹿実(鹿児島実業高校)に行くんだろうなって思っていました。自分の兄貴が目標だったし、その兄貴が鹿実に行っていたので。それに鹿実サッカー部の松澤(隆司)先生をはじめ、知っている人もたくさんいました。当時は、国見とか帝京が強かったですが、鹿実も強かったんで、他に行く選択肢はなかったですね。今みたいに簡単に高校の情報を得られる時代でもなかったので、鹿実に行くのが自分の中では自然でした」
遠藤が中3の頃は、Jリーグが開幕して2年目の時だ。当時12クラブの下部組織はできつつあったが、J2やJ3はなく、全国にクラブユースがあるわけではなかった。部活を続ける選手たちにとっては、高校サッカー選手権が野球の甲子園と同じ憧れのステージ、夢の舞台だった。
「僕らが中学から高校に行く時は、ユースが極端に少なかったし、今みたいにいろいろ選択肢があるわけじゃなかった。上手い選手は高校の強豪校に行くのが当たり前で、みんな高校選手権を目指していました。高校選手権でNo.1になれれば、全国でNo.1になれるし、名前も知られるようになるので、自分もそこを目指していました」