公文の子供机で学んだ日本語 ブラジル代表を蹴った“砂の日本代表10番”異端の半生
サッカー日本代表に世界一を知る名手がいる。それも、名門バルセロナのユニホームをまとって――。男の名は茂怜羅(モレイラ)オズ。ビーチサッカーで日本をワールドカップ(W杯)3大会連続出場に導いた“砂の上のレジェンド”だ。名前を見ても分かる通り、茂怜羅の出身は日本ではなく、ブラジルである。
バルサで世界一経験、ビーチサッカー日本代表・茂怜羅オズが日本代表を選んだ理由
サッカー日本代表に世界一を知る名手がいる。それも、名門バルセロナのユニホームをまとって――。男の名は茂怜羅(モレイラ)オズ。ビーチサッカーで日本をワールドカップ(W杯)3大会連続出場に導いた“砂の上のレジェンド”だ。名前を見ても分かる通り、茂怜羅の出身は日本ではなく、ブラジルである。
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このほど、4度目となる「世界年間ベスト5」に選出された32歳。なぜ、「普通」のサッカーが本場の母国で敢えてビーチサッカーを選び、ブラジル代表のオファーを断ってまで日本人としてプレーしているのか。バルセロナで世界一も経験した“もう一人の日本代表10番”を「THE ANSWER」がインタビュー。前編は異才を放つ、オンリーワンの半生について迫った。
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ブラジルに生まれた茂怜羅。6歳で本格的にサッカーボールを蹴り始めた。それは芝ではなく、砂の上だった。いったい、その理由は何だったのか。穏やかな笑みを浮かべながら、流暢な日本語で語り始めた。
「よく聞かれますが、一番に分かりやすいのは家からビーチが近かったことです。コパカバーナという海の前に住んでいて、ビーチまで信号を渡るだけ。ビーチは4キロくらい続いて、ビーチサッカースクールがいっぱいあります。自分はボールを蹴りたくて、芝か砂かは関係なく、近くにあるスクールに入りました。
実際に毎日練習をやり始めると、もっと好きになった。それに、ブラジルではビーチサッカーもテレビで生放送があるくらい有名なスポーツ。小さい時に地元のW杯でスタジアムが立ったので見に行くと、本物の試合の雰囲気を感じたら、10歳で『ビーチサッカー選手になりたい』という夢ができてきたんです」
通常のサッカーの半分以下のコートで展開も速い。オーバーヘッドなどのアクロバティックなプレーができることに魅了され、砂にまみれた。ただ、抜きん出たセンスで14歳の時、サッカーの名門バスコ・ダ・ガマに招待された。
「自分はビーチサッカーが好きなので、普通のサッカーは見るのは好きでも、プレーするのは興味がなかった。でも、家族、コーチはどんな国でもある有名な世界的スポーツだから将来を考えてサッカーをやった方がいいと言われ、招待は受けた。当時のビーチサッカーは代表の15人くらいは稼げるけど、それ以下の選手はみんな働きながらだったので。
そこから2年間はサッカーとビーチサッカーを両方やった。16歳でビーチサッカーでプロ契約になり、一本で行こうと。みんな反対したけど、好きなことをやって幸せになればいいと思った。新しい競技だし、どんどん変わっていくかなと。今なら考えるかもしれないけど、若かったのでビーチサッカーしか見えなかった。でも、それで良かった。今も後悔してないので」
メキメキと頭角を現し、20歳でドイツからオファーを受けて渡欧。1年プレーすると思わぬオファーが届いた。日本からだった。親交があった元ブラジル代表選手が沖縄で選手兼監督としてプレーしており、同じチームで誘いを受けた。
「ドイツでいい経験をしたし、もっとチャレンジしたいと思った。文化的なものは全く違うけど、彼から安全で住みやすいとか、日本は始まったばかりとか、いろいろ聞いて一緒に頑張ろうと言われ、やってみようと思った。沖縄はコパカバーナと似ているし、海があって暖かいし、正直、違う国に来た印象がなかった。
日本人はみんな優しいし、親切。言葉も喋れないけど、困らなかった。どこ行っても誰かが手伝ってくれた。特に、チームメートは病院に行かなきゃいけない時まで手伝ってくれた。今でも忘れられない。自分の故郷のように感じたし、親切さは日本に来る前までにほかの国で経験したものとは違った。便利で住みやすいし、ごはんもおいしいから」