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自分の母国を「ワタシ、コロシマス」 日本ラグビーに忠誠心を捧げ…33歳で急逝した父を追う決断

インタビューに応じ、亡き父と第2の祖国への思いを語ったヴィリアメ【写真:吉田宏】
インタビューに応じ、亡き父と第2の祖国への思いを語ったヴィリアメ【写真:吉田宏】

5歳で訪れた父パティリアイさんとの突然の別れ

 もちろん、殺すほどの闘争心でプレーするという意味合いだが、祖国の仲間にそんな言葉を浴びせるほど日本代表として戦うことに誇りを持っていた。日本選手以上に自分たちのジャージーへの忠誠心、代表で戦うことへのプライドに満ちた姿勢は、多くの日本選手が学ぶべきだと感じていた。

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 その快足ランナーには、自らの人生をも早すぎるフィニッシュが待っていた。トヨタを退団してフィジーに戻った2002年、心臓発作のため33歳という若さで人生のノーサイドを迎えた。ヴィリアメはわずか5歳だった。フィジーでの葬儀には、早すぎる別れを惜しんでパットさんが来日した時のトヨタ自動車監督で、息子のようにかわいがっていた平井俊洋さんらも駆け付けた。

 ヴィリアメは当時をこう回想する。

「まだ5歳だったので、感情的にはならなかったですね。もちろん葬式には、日本からも含めてあまりにも多くの人が来ていたので、それはすごく覚えています。どれだけ父が慕われていたのかという記憶は残っています」

 5歳で死別した父パットさんだが、選手としての記憶はほとんど残っていないという。

「選手としての記憶はあまりないですね。でも、いろいろな人から沢山のビデオをもらったので見ています。あの時代ではすごい選手だと思いました。小さい選手(180cm、77kg)だったが、スピードがあり、大きなハートを持った選手だったんだなと思います」

 プレーヤーとしては動画で偉大さを再認識したが、父親としての記憶はしっかりと脳裏に焼き付いている。

「家族に対しては、本当に面倒をよく見てくれました。合宿とかですごく忙しかったはずですけれど、家に帰ってきてくれた時にはラグビーをやったり、公園やレストランに連れて行ってくれたり、一緒に過ごしてくれました。いつも僕たちを優先順位の1番に考えていてくれたと思いますよ」

 チームの練習場でも、父の練習が終わるまで兄バティリアイとサイドラインの外側を走ったり、練習後に公園で遊んだ。家族思いのパットさんの、忘れられないエピソードも記憶に残っている。

「アウェーの試合の時、トヨタでは関係者やファン、家族をバスで試合会場へ連れて行ってくれるんです。選手はもちろんチームバスで移動していたが、帰りに父がチームを離れてファンのバスに僕らと一緒に乗ってくれたんです。週明けには、コーチからすごく怒られたらしいですけどね」

 そんな父の記憶を辿りながら、ヴィリアメは亡き父の足跡を追い続ける。

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吉田 宏

サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

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