無名の元高校教師から日本代表監督に、そして復帰 賛否渦巻く第2次エディー・ジャパンの可能性を問う
巨人・原監督から高校スポーツの監督にまで話を聞きに行く貪欲さ
ラグビー記者として、最初にエディー・ジョーンズの存在を知ったのは1996年に遡る。95年W杯での日本の惨敗により国内で変革の必要性が沸き起こる中で、日本代表監督に就任した山本巌氏の下、元オーストラリア代表のグレン・エラと共に日本代表コーチに招かれたのが、この無名の元高校教師だった。強化合宿の指導では、当時は斬新だった接点での攻防のスキルメニューに新しいラグビーの方向性を感じさせられた。誰が、どんな姿勢で、どのタイミングで密集に入るのか、次の選手はどうサポートするのか――そんな選手個々の動きを細かく、合理的に教え込んでいた。
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エディー自身も95年から始まった東海大ラグビー部での指導がプロコーチとしての第一歩だったが、オーストラリア仕込みの世界最先端のラグビーは、日本ではまだまだ普及していないものだった。翌年から指揮を執った故・平尾誠二監督の体制ではスタッフが一新されたが、もしエディーが残留していたら1999年W杯へ向けた代表強化にも変化があっただろう。
その後はサントリーでのコーチとしての付き合いになるが、オーストラリアで力をつけてきたACTブランビーズの監督からオーストラリア代表監督へステップアップして、2003年W杯で準優勝。07年大会では、南アフリカ代表アドバイザーとして優勝をサポートした。12年に日本代表に迎えられた時には、世界でも手腕が認められる名コーチになっていた。
そんな名将のキャラクターを一言で表現すればハードワークという言葉がふさわしい。選手が朝6時にジムワークをする時は、その前からジムで汗を流した。先にも書いたように選手にハードワークを求めるばかりではなく、コーチ、スタッフに対しても注文は容赦なかった。深夜、早朝、オンオフ構わず分析や遠征スケジュールの指示や相談が届くため、チーム全員が24時間体制のような状態が日常だった。そのために、多くのスタッフがチームを離脱する弊害も少なくなかった。長くエディーの下で働いたあるスタッフは「常軌を逸しているといわれても仕方ないが、あそこまで突き詰めないと、目指したものは達成できなかった」と厳しさを認めながらも、辣腕ぶりへの理解も示す。過去1勝の日本代表が南アフリカに勝ち、W杯で3勝を挙げるには、ありえないような努力や犠牲なくしては実現できなかったのだ。
周囲に厳しい注文をする一方で、自分自身のコーチとしての向上心も旺盛だ。多くの成功したチーム、指導者から実際に話を聞くために、バルセロナなどヨーロッパの強豪サッカークラブを始め欧米の成功したプロチームを巡り、指導者に話を聞き、組織の運営や設備も学んだ。国内でも日本シリーズ制覇を遂げた巨人・原辰徳監督にも経験を聞いた。プロチームだけではなく、女子バレーボール部など日本の高校スポーツの常勝チームの監督にまで話を聞きに行くなどの旺盛さだった。
貪欲ともいえるほどの旺盛な学びへの欲望と、妥協のない選手、スタッフへの注文に「2度と一緒にやりたくない」という陰口もあるが、取材を続ける中で、その原点は現役時代にあると感じ取った。シドニーの強豪ランドウイッククラブでHOとしてプレーしたエディーだが、日本人の血を引くオーストラリア人選手としての挑戦と挫折が、名将と呼ばれてきたコーチの原動力になっている。
(後編へ続く)
(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)