このままでは「野球の審判員がいなくなる」 仙台六大学の審判部長、アマ球界の改善を訴える理由
東日本大震災の翌年の審判講習会で目にした衝撃
当時、連盟の審判員は25人ほどで、うち7割は60歳代、2.5割は40?50歳代。人手不足と高齢化が深刻化する中、坂本は恩師の頼みとあって24歳の若さで加入を決める。また2010年12月には、NPB審判員の採用試験に「ほぼ素人」の状態で臨んだ。旧友のダルビッシュからプロ野球の世界の話を聞いていたこともあり、「人生一度きり。後悔しないためにも」との考えで勤めていた会社を退職し、野球ルールやジャッジの基本を猛勉強した。
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東日本の最終5人まで残り、採用を確信した坂本だったが、届いたのは不合格通知。面接や実技、野球ルールの筆記試験は通過したものの、最後に課せられた国語や数学などの学科試験で足をすくわれた。追い討ちをかけるように、直後に東日本大震災が発生。審判どころではなくなり、5月頃まで無職の状態が続いた。
やっとの思いで再就職先を見つけ、しばらくは仕事に専念した。止まっていた歯車が再び動き出したのは、震災翌年の2012年2月。神奈川県平塚市で開催される審判講習会に参加したことがきっかけだった。
全日本大学野球連盟の主催で、全国各地の大学リーグで実績を積んだ精鋭たちが集う。「とんでもない審判がたくさんいる」。一線級の審判を間近で目にして、大きな衝撃と刺激を受けた。
講習会では審判の所作のすべてを学んだ。左足から走り出し、左足で止まり、アウト判定では「He’s out!」とコールする。野球の審判にとって全ての判定の基本となる、「Go-Stop-Call」と呼ばれる一連の動作をひたすら繰り返す。講習会後も自宅の鏡の前で何度も練習し、コールの際に突き出す腕の角度など細部までこだわりながら審判の基礎を固めていった。
この年から仙台六大学のリーグ戦で審判としてグラウンドに立つようになり、実戦経験を積んだ。3年後には社会人野球の試合にも入るようになり、全国大会である全日本大学野球選手権でも球審を務めた。その頃までは「自分が大きい舞台に立ちたい」との思いが強かったが、近年は「自分のことよりも、若い人が審判の世界に飛び込みやすくなるような環境を整備すること」を重視する考え方にシフトしてきていた。
そんな矢先、今年1月に前・審判部長の菅本裕昭さんが急逝。副部長だった坂本が部長を任されることとなった。