日本人元J監督の「厳しさは称賛に値した」 1989年初来日、ブラジル人コーチの人生変えた出会い
サッカー・Jリーグの発展を語る上でブラジル人の存在は欠かせない。1993年のリーグ開幕前から、ジーコら数々の名手が来日し、日本人選手に大きな影響を与えてきた。1989年にJSL(日本サッカーリーグ)時代の川崎製鉄に加入し、翌年からフィジカルコーチや監督としてチームを支えたエルシオ氏は、Jリーグでプレーすることはなかったが、プロ化以前から日本サッカーが成長する姿を見てきた1人だ。
エルシオ「フィジカルの専門家が見た日本サッカー」第1回、来日2年目から始まった指導者キャリア
サッカー・Jリーグの発展を語る上でブラジル人の存在は欠かせない。1993年のリーグ開幕前から、ジーコら数々の名手が来日し、日本人選手に大きな影響を与えてきた。1989年にJSL(日本サッカーリーグ)時代の川崎製鉄に加入し、翌年からフィジカルコーチや監督としてチームを支えたエルシオ氏は、Jリーグでプレーすることはなかったが、プロ化以前から日本サッカーが成長する姿を見てきた1人だ。
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これまで日本の13チームでコーチを務めるなど、指導者として異国の地で奮闘してきたが、そんな67歳の指導者の目に日本サッカーはどのように映っているのか。34年前の初来日当時を振り返りながら、日本で主にフィジカルコーチとして歩んだキャリアを辿った。(取材・文=加部 究)
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日本サッカーの発展に、王国ブラジルとの交流は不可欠だった。
1965年にデットマル・クラマーの提言により、日本で初めて団体競技の全国リーグとしてJSL(日本サッカーリーグ)が始まるが、当初助っ人選手の輸入先はブラジルに限られ、第一号のネルソン吉村(後に日本国籍を取得し吉村大志郎として代表チームでも活躍)を筆頭にサンパウロ州の日系人リーグ出身の選手たちの来日が相次いだ。
大きな転機が訪れたのは1987年で、元ブラジル代表主将のオスカーが日産自動車(現・横浜F・マリノス)へ加入する。時代がプロ化へと進む中で、本場からもトップレベルの選手たちが来日する流れが加速していくのだ。
エルシオが初めて日本にやって来たのは、それから2年後のことで、オスカーの紹介で動いた日本のエージェントからオファーを受け川崎製鉄でプレーをすることになった。
「まだ川崎製鉄にもJリーグへの参戦計画がありました(実際にヴィッセル神戸やファジアーノ岡山の母体となった)。先に日本でプレーをしていた知り合いもいたので、だいたいの様子は聞いていたけれど、芝のグラウンドも少なくて試合のレベルも想像していたより少し下だった。ブラジルは個人技が重視されていたので、日本の選手たちは監督の指示に凄く忠実に従うイメージでした」