4番でエースだった熊代聖人が“主役”を辞めた日 自分を押し殺し、貫いた12年+3年間
来季からプロ野球・西武の2軍外野守備・走塁コーチに就任する熊代聖人氏。愛媛・今治西高時代は、打っても投げてもまさに主役だったが、プロではユーティリティープレーヤーに。高3年夏に対戦し、コールド負けを喫した筆者にとっては、驚きの変貌ぶりだった。一体、どんな経緯があったのか。長年の疑問を本人にぶつけた。(取材・文=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉、敬称略)
西武・熊代聖人インタビュー取材後記、高校時代から変わったプロ12年の背景とは
来季からプロ野球・西武の2軍外野守備・走塁コーチに就任する熊代聖人氏。愛媛・今治西高時代は、打っても投げてもまさに主役だったが、プロではユーティリティープレーヤーに。高3年夏に対戦し、コールド負けを喫した筆者にとっては、驚きの変貌ぶりだった。一体、どんな経緯があったのか。長年の疑問を本人にぶつけた。(取材・文=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉、敬称略)
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「熊代、引退」のニュースを目にして、どうしても本人に話が聞きたくなった。筆者にとって、高校時代に対戦した数少ないプロ野球選手だったから。
忘れもしない2007年7月26日の愛媛県大会準々決勝。筆者が「4番・一塁」で出場した松山北は、熊代擁する今治西に0-7の7回コールド負け。全く歯が立たず、最後の夏を終えた。
当時の彼は、県下No.1の投手であり、No.1の強打者だった。
2日前の試合で延長12回を投げていた。それでもこの日、「4番・投手」でマウンドに立った熊代は直球もスライダーもキレキレ。松山北はわずか1安打、筆者は3打数無安打2三振と手も足も出なかった。「あいつ、プロで活躍するんだろうな」。明らかな実力差が、対抗心すらかき消した。
その夏の甲子園。熊代は、打っては文星芸大付の好左腕・佐藤祥万(元DeNAなど)から豪快な決勝ソロを放ち、投げても近江戦で2安打完封するなど8強入りに貢献。社会人を経て、プロで12年間を過ごした。勝手だけれど、いつしか尊敬の念を抱いていた筆者にとっても、引退は大きな出来事だった。
球団に取材を申し込むと、快く了承してもらえた。「覚えてるよ!」と出迎えてくれた熊代の笑顔を見て、あの夏の惨敗がちょっとだけフラッシュバックした。
熊代は驚くほど記憶力が良かった。松山北に唯一許した安打も「3番の子が二塁強襲のヒット打ったよね」と即答。「あと、誰かに死球を当ててしまったけど、一塁牽制でアウトにして……ごめんねって(笑)」。こちらが言われて思い出すようなシチュエーションすら覚えていた。
当時の彼は、観客が多ければ多いほど燃えるヒーロー気質だった。「皆、俺を見てくれてる! ってアホみたいな考え方してたから(笑)」。幼少期は、意外にも恥ずかしがり屋で学芸会など「無理」。ただ、ユニホームを着てマウンドに立つと、打者を抑える楽しさから堂々と主役になれた。
そんなヒーローが、どんな経緯で万能戦士に変わっていったのか。長年の疑問だった。中田翔、唐川侑己、佐藤由規の「高校BIG3」が注目された平成元年世代。投打の活躍なら熊代だって凄かった。