亡き盟友・平尾誠二との約束 協会新会長として受け継ぐ“日本ラグビー改革”の遺志
日本ラグビー協会の理事会で3度目の共闘
期待された1999年W杯は、プール戦全敗に終わった。世界との格差を埋めることの難しさを痛感させられたが、その一方で、代表チームの強化に本格的なデータ収集や分析を取り入れ、アナリストをチームに帯同させるなど、世界の強豪の取り組みに近づこうというチャレンジが始まった。96年からは日本代表にとって初めてとなった毎年開催される国際大会「パシフィックリム選手権」も始まり、国際化への門戸を開くことになった。このような99年W杯までの挑戦で、平尾さん、土田会長が痛感させられたのが、国内ラグビーをどう強化に結びつけていくかという課題だった。
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「世界はプロ化が始まっていた。日本でプロを作るというよりは、社会人リーグがこのままでいいのかという思いでした。あの頃の日本は、まだ東日本、関西という地域大会中心で、全国規模の試合はシーズン最後の全国社会人大会のトーナメントだけ。年に1、2回しか厳しい試合がなかった。これをなんとかしないといけない。それが2003年にトップリーグが始まり、今のリーグワンへと変わっていくことになります」
平尾ジャパンの挑戦は、W杯翌年の2000年に平尾さんが代表監督を辞任して終わった。しかし、日本ラグビー界は世界と戦うための様々な新しい取り組みや、国内リーグの整備の必要性などの“遺産”を引き継ぐことになった。そして平尾-土田コンビは、2015年に再び結成されることになる。同志社大、日本代表に続く3度目の、そして結果的に最後の共闘の場となったのは、日本協会理事会というフィールドだった。
「2015年6月に理事会での推薦があって理事になりましたが、実は、これは平尾に誘われて決めました。仕事では役員とサントリーフーズの社長になったタイミングで、受けられる環境ではなかった。でも、その時に平尾から『もっと世界に打って出て行く協会、代表チームを一緒に作ろう』と声をかけられたんです」
社内でのポストを考えれば、当然仕事に専念するべきだったが、盟友・平尾さんからの、そしてともに世界に挑んだ時の、日本のラグビーを変えたいという思いが理事就任という選択肢を後押しした。
「平尾と一緒にW杯に行って、世界を初めて知って。でも日本は選手のプロ化も、コーチ陣すらプロ化していなかった。日本代表がどうしたら強くなれるんだろうということをお互いに考えながら、2015年に彼と一緒に改革していこうとスタートしました」
就任早々に頭を悩ませたのは、エディー・ジョーンズHCの退任騒動だった。だが土田会長が驚いたのは退任劇ではなく、協会の準備不足だった。同HCがW杯を最後に退任すると発表した時点で、協会内では後任人事に関して、候補者はもちろん、選考プロセスなど一切手がつけられていなかったのだ。
「一番困ったのが、次の監督をどう選んでいくかの仕組みが何もなかったこと。僕と平尾が強化とトップリーグを担当する理事だったから、2人で『どうする?』という話し合いから始まりました。そして次の指導者には、どういう条件が必要で、実際に誰が候補なのかというリストを作りました」