“サッカー王国”清水とロシア代表 日韓W杯で滞在、関係者が忘れない日本に敗戦後の姿
トルシエの鶴の一言で日本代表に袖にされて…
「2002年の清水のキャンプ誘致は、実は日本代表で決まりかけていたんですよ。そもそもJ-STEPは、日本代表のトレーニングのために作られたものでしたし。それが土壇場でひっくり返ったのは、当時のフィリップ・トルシエ監督の判断によるものでした。エコパでの静岡ダービーを視察後、磐田にある(葛城)北の丸を案内されて、すっかり気に入ったみたいです。J-STEPは行政の施設ですが、北の丸は民間でホスピタリティも万全でしたからね。そのあたりで差が出てしまったんじゃないかと思います」
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かくして清水市は、日本に代わるナショナルチームを探すこととなった。とはいえ、2001年12月1日に韓国・釜山で行われるファイナルドロー(本大会抽選会)が終わるまで、国を絞り切ることはできない。
そこで清水市は、日本と同じグループHのポッド3に注目した。ここに入ったチームは、神戸と横浜と静岡を転戦することになり、地理的に清水市は申し分ない。ファイナルドローの会場には、勝負服の着物に身を包んだ綾部の姿もあった。そして、ポッド3からグループHに入ったのは、ロシア──。
「どうしようかと思いましたね。ロシアのコネクションなんて、誰も持っていませんでしたから。すると会場で長沼健さん(当時JFA名誉会長)が、外国のご夫妻と談笑しているのを見つけたんです。『お話し中すみません。長沼さんはロシアにお知り合いがいらっしゃいませんか?』って割り込んだら、その場にいらしたのは偶然にも、ロシア協会のヴャチェスラフ・コロスコフ会長だったんですよ!」
長沼もまた、トルシエの鶴の一言で清水市が袖にされたことに、多少の申し訳なさを感じていたのだろう。「コロスコフさん、清水は良いところですよ」という名誉会長の推薦が決め手となり、ロシア協会はすぐさまJ-STEPに使節団を派遣。多少の曲折はあったものの、清水市はロシア代表を迎え入れることとなった。
全国のキャンプ地の中で、最も厳しい警備が求められたのが清水市であった。なぜなら北方領土問題を理由に、右翼の街宣車がJ-STEPに乗り込んでくるリスクがあったからだ。地元の警察による24時間体制の警備もあり、幸いそうしたトラブルはなかったものの、何者かによってピッチに除草剤が撒かれるというアクシデントが発生。この事件は、ロシア国内でも「ピッチに化学兵器!」と報じられた。
「ピッチの変色に気付いたのが、ロシア代表を迎え入れる3週間前でした。結局、数ミリだけを残して全部刈り取って、それから肥料を与えてなんとか芝生を復活させることができたんです。それでも、当初のピッチコンディションから比べると、かなり落ちました。監督のオレグ・ロマンツェフさんに謝罪したら『何も問題ない。今までトレーニングしたなかで一番良かったよ』と言ってくださいましたけれど、心苦しかったですね」