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「サッカー不毛の地」新潟を変えた日韓W杯 転勤族の1人が奔走、勝手連とアルビの物語

アルビレックス新潟で10番を背負う本間至恩は2000年生まれ、日韓W杯をリアルタイムで体感していない世代だ【写真:宇都宮徹壱】
アルビレックス新潟で10番を背負う本間至恩は2000年生まれ、日韓W杯をリアルタイムで体感していない世代だ【写真:宇都宮徹壱】

大会前はW杯への関心も低かった「サッカー不毛の地」

 今でこそ、北信越を代表する「サッカーどころ」となった新潟。しかし、W杯の開催地に名乗りを上げた当時は「サッカー不毛の地」という評価が一般的であった。滑り込みで開催地となったものの、地元での大会への関心は低く、W杯のような大規模スポーツイベントの開催経験もなければ、ノウハウもなかった。大会前年に行われたコンフェデレーションズカップでは、シャトルバスでの輸送が大幅に遅れたため、試合開始に間に合わなかった観客が続出。本大会に少なからぬ不安を残した。

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 ところが、オープニングマッチを含む新潟の3試合は、つつがなく終了。そして大会後も、ビッグスワンで行われるアルビレックスの試合は、収容率70%を超えるシーズンが9年も続いた。J2降格以降は集客の伸びが鈍化したものの、それでも新潟にサッカー文化がすっかり根付いたことについて、異論を挟む人はいないだろう。

 2002年のW杯開催から、今年でちょうど20年。開催地に今も残る有形無形のレガシーを探し求める旅は、ここ新潟からスタートする。

 20年という年月は、14時キックオフの試合の中でも、至るところで感じることができた。まず、屋根鉄骨の経年劣化に伴う改修工事により、ビッグスワンのNスタンド2階席中央には作業用のイントレが組まれていた。また、この試合で途中出場していた10番の本間至恩は2000年生まれ、14番の三戸舜介は2002年生まれである。この世代にとって当地でのW杯は、もはや「歴史」でしかないのだろう。

「今の大学生くらいだと、新潟でワールドカップが開催されたことをリアルで知らないんですよ。当時の記憶が風化するのはもったいない。ですからこの6月、2002年のトークイベントをやります。それが大会に携わってきた、我々の役割ですから」

 そう語るのは、NPO法人アライアンス2002(以下、アライアンス)の会長を務める金子法泰、59歳である。新潟でのW杯について、アライアンスの存在抜きに語ることはできない。その理由に触れる前に、まずは金子にW杯との関わりから語ってもらうことにしよう。

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宇都宮 徹壱

1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。

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