創部100周年で大学日本一 慶大ラグビー部元主将の運命的キャリア、就職5年で訪れた転機
誇りを胸に戦った関東学院との決勝
「周りは100周年だ100周年だと盛り上がっていたようですが、当事者の自分たちは前年の敗戦もあり、準決勝で想定される対戦相手の厳しさが気になっていたし、準決勝の壁をどう乗り越えるかが、チーム内の大きな問題でした。優勝よりも、とにかく前年に果たせなかった決勝に行こうというモチベーションで1年間やっていたんです」
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日本ラグビーのルーツ校という長き伝統は、OB会などチーム周辺からの期待や重圧も多かった。だが上田監督がグラウンドに集中できる環境を整えてくれた。ヘッドコーチとして、OBの林雅人を入閣させたことも大きかった。林ヘッドは、オーストラリア協会のコーチングライセンスを取得して、当時はまだ日本代表ヘッドコーチにも就任していなかったエディー・ジョーンズ氏を師と仰ぎ、コーチング技術を積み上げていた。一部の社会人チームを上回る最先端のデータ分析を駆使して、日本のルーツ校に合理的な戦術を落とし込んでいた。
その一方で、慶應ラグビーの伝統や誇りも忘れていなかった。決勝の相手は同志社大に続く史上2校目の選手権3連覇に挑む関東学院大。常勝軍団だった関東学院優位の声もあったが、キックオフ直前に異変が起きていた。校歌斉唱をいつものセレモニー程度の雰囲気で終えた関東学院に対して、慶應メンバーは胸のエンブレムを手で握り締めながら大声で歌いあげた。その姿を、関東学院フィフティーンが驚きの表情で見入っていたのだ。この些細な出来事で、国立競技場は決勝常連の関東学院ではなく、慶應が精神的なアドバンテージを手にしている雰囲気に包まれていた。
試合はSO和田を中心に合理的にゲームを組み立てながら、伝統のタックルも光った慶應が27-7と快勝。高田主将がキャプテンとして、190センチの長身の頭上に優勝杯を高々と掲げ、慶應蹴球部100年の歴史に名を刻んだ。
世界のラグビーは1995年からプロ化を容認していたが、当時の日本はまだ厳然としたアマチュアスポーツだった。初の全国リーグだったトップリーグも誕生前。社会人は東日本、関西、九州の3地域リーグと、全国社会人大会が行われていた。なかでも慶應蹴球部では、トップレベルでのラグビーは大学で終え、ビジネス界に進むのが日常だった。高田も複数の社会人チームから誘いを受けたが、父と同じメディアを進路に選びNHKを就職先に決めていた。