慶大ラグビー部時代に伝説の決戦 ロッテ社長など歴任したリーグワン理事長の異色の人生
慶大入学時に一度離れたラグビーの道
神奈川・慶應高時代は有力校と言われながら、相模台工高など当時の強豪に花園の夢を阻まれ続けた。2年、3年と県大会決勝止まり。多くの仲間たちが、進学する慶大での再挑戦を決めていたが、玉塚氏は日吉のラグビー部グラウンドには行かなかった。
【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら
「こんなに一生懸命やっても夢が叶わないなら、もう辞めよう」
時はバブル時代。慶應ボーイとしての、楽しいキャンパス生活を一度は選んだのだが、そんな時間はゴールデンウイーク前には色褪せていたという。
「蝶よ花よと、テニスだスキーだと思っていたけれど、やはり我慢できなくてね。結局、4月後半くらいには、ラグビー部に入っていました」
“おぼっちゃま”イメージもある慶大だが、当時のラグビー部は、それとは180度異なる人を人とも思わぬ猛練習で知れ渡っていた。ライバルの強豪校が高校の有望選手を集める一方、推薦でも合格が保証されない慶大にトップ選手が集まることはなかった。その格差を猛練習で補い、強豪を倒していくのが慶大ラグビー部の伝統であり流儀だった。
「僕らの頃は、今なら考えられないような練習です。山中湖での合宿では、何度も倒れたりね。本当に、今じゃあり得ないですよね」
部員誰もが呼んだ“地獄の山中湖”。ラグビー界の慣用句でもある「親に見せられない練習」を体現していたのが、このルーツ校だった。そんな地獄を生き抜き、力をつけた1984年シーズンのチームは、関東大学対抗戦では宿敵・明治大、早稲田大を倒して、関東ナンバーワンとして全国大学選手権へ進出。そしてラグビー界の貴公子、天才と謳われた故平尾誠二さん率いる同志社大に決勝で挑むことになった。
戦前の予想で同志社大の3連覇を疑う声は少なかった。当時の同志社大メンバーも「楽に勝てる」という思いを回想しているが、挑戦者の不屈の精神が牙を剥いた。
前半を3-10で折り返すと、伝統のハードタックルでトライを阻むなど、王者に食らいついた。当時はトライが4点の時代。6-10で迎えた残り4分には、慶大FB村井大次郎がポスト左に飛び込み、誰もがGKを決めての逆転と思ったが、ラストパスがスローフォワードと判定された。生前の平尾さんも「もうアカン、負けたと思った」と振り返った幻のトライ。慶大の奇跡は幻に終わったが、半世紀を超える大学選手権の中でも屈指の名勝負として今も語り継がれる決勝戦だ。