春高バレーがどんな大会かも分からず… 迫田さおり、異端のバレーボール人生
「ああ、私は東レにきて本当に良かったな」と思った瞬間とは
レギュラーに定着したのは入団から4年も過ぎた2009-10プレミアリーグとなる。きっかけは2009年12月18日。天皇皇后杯のJTマーヴェラス戦。初めてスタメンに入った迫田のプレーが一気に爆発する。
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「あの日は私の誕生日でした。『自分の誕生日は自分で祝え』と言われてコートに入ると、たまたまプレーが爆発。アタックを打てばほぼ決まる展開で、すごく楽しかったですね。絶対に勝てないと言われていた相手にも勝ち、チームメイトはみんな『ミラクルだよ!』と笑っていました」
1年目から試合には出ていたものの、それまではまったく自信を持てず、「自分はこのユニフォームを着るに値する選手なのか」と常に自問自答を繰り返していたという。
「東レに入団したとき、中学、高校の部活動と同じく、バレーボールは3年、長くても5年でやめようと思っていました。しかも、毎日、監督からはボロクソに怒られ続ける。そんななか『監督はリオ(迫田の愛称)だから厳しく言うんだよ。怒られているうちが華だから頑張れ』と常に先輩たちに励まされてきた。その言葉があったから、バレーボールを続けてこられました」
その後、迫田は全日本に招集。2年後の2012年、ロンドンオリンピックでは28年ぶりのメダル獲得にも貢献することとなる。ロンドン五輪が終わったとき、迫田はふと、東レのスカウト担当に言われた言葉を思い出したという。
「『北京は無理だけど、ロンドンオリンピックはいけると思うよ』。高校時代、私に声をかけてくださった人がそう言っていたんです。当時の私は『この人、何を言っているんだろう』と思っていたけど、それが現実になった。ああ、私は東レにきて本当に良かったなと思いました」
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(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)