「続けるも辞めるも怖かった」引退までの葛藤 フィギュアスケート・鈴木明子の今
フィギュアスケートで五輪2大会出場した鈴木明子さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じた。現役時代は摂食障害を経験しながら、24歳の10年バンクーバー大会で五輪初出場するなど、一つずつ壁を乗り越え、抜群のスケーティング技術を武器に活躍。浅田真央、安藤美姫らとフィギュアスケートブームを牽引した。14年ソチ五輪を経て、29歳で引退した後の人生は、どう歩んでいるのか。インタビュー前編は「鈴木明子の今」に迫る。
鈴木明子インタビュー前編、35歳になった今置いている「2つの軸」とは
フィギュアスケートで五輪2大会出場した鈴木明子さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じた。現役時代は摂食障害を経験しながら、24歳の10年バンクーバー大会で五輪初出場するなど、一つずつ壁を乗り越え、抜群のスケーティング技術を武器に活躍。浅田真央、安藤美姫らとフィギュアスケートブームを牽引した。14年ソチ五輪を経て、29歳で引退した後の人生は、どう歩んでいるのか。インタビュー前編は「鈴木明子の今」に迫る。
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人生という銀盤に“遅咲きの花”を開かせた名スケーターは今、35歳になった。
競技を引退した鈴木さんは、現役時代の経験を生かした解説、評論はもちろんのこと、振付師、スケート教室の指導。さらに日本オリンピック委員会のアスリート委員を務めるなど、多岐に渡る活動を精力的にこなしてきた。
そんな中で「2つの軸」を持って、第二の人生を歩んでいるという。
「今、プロフィギュアスケーターという肩書きが軸になっていることは間違いありません。引退したのが29歳の時。他のスケーターに比べると、現役生活が長かった分、プロでいられる時間は長くないと思い、始めました。これは女性の体の問題もあるし、人生もどうなっていくか分からないもの。できる限り長くやっていきたいと思いながら、引退後に始めた講演活動もすごくやりがいがあって。欲張りなのですが、並行して続けています」
充実感いっぱいに「今」の想いを明かした。では、なぜ「プロスケーター」と「講演活動」という道を歩むことになったのか。その足跡を辿ると鈴木さんらしい、まっすぐな理由が見えてくる。
生まれ故郷の名古屋でスケートを始めたのは6歳のこと。15歳だった高1で出場した2000年の全日本選手権で4位に入り、一躍、脚光を浴びた。しかし、大学入学後は摂食障害を患い、03-04年シーズンは全休。苦しい時代を乗り越え、24歳だった全日本選手権で初の表彰台となる2位に入り、10年バンクーバー五輪に出場。そして、4年後の14年ソチ五輪で2大会連続8位に入り、同年の世界選手権を最後に29歳で引退した。
「プロスケーターになろう」。そう決意するのは「引退」を巡る決断が関係していた。
もともとは初めて出場したバンクーバー五輪が「最初で最後」と思っていた。当時24歳。「フィギュアスケートはすごく低年齢化が進んで、私自身もどこまでやれるか分からかったので」。しかし、浅田真央、安藤美姫らと出場し、8位に入賞した大会で価値観が変わった。「五輪に一度出てみたら、やっぱりもうちょっと日本代表として、この仲間たちと頑張っていきたいという欲が出てきたんです」
ただ「もうちょっと頑張る」と決めても「いつまで頑張る」というゴールは見えなかった。正確に言えば、見ようとしなかった。理由は「怖かったから」と率直に言う。幼少期はもちろん、青春時代も捧げたフィギュアスケート人生だった。20代も練習に明け暮れ、国際大会で世界を飛び回る生活。裏を返せば、「フィギュアスケート」以外、何も知らないことに気づいた。
「そうすると、辞めた後が怖くなってしまったんです。多くのアスリートはセカンドキャリアが見えてこないと、怖いと思います。私もその一人でした。引退したら、どうやって生きていくのか。それまでアルバイトすらしたこともない。どうやって社会に出ていけばいいのか、ビジョンも見えなくて……」。当時を「続けるのも怖い、辞めるのも怖い状況だった」と表現。だから「引退というゴールが決められなかった」という。
バンクーバー五輪以降、次のソチ五輪を目指すとは公言しないまま、競技を続けていた。自身が「ターニングポイントになった」と挙げたのは、12年にニースで行われた世界選手権だった。ショートプログラム(SP)5位で迎えたフリーは、ジャンプにミスがありながらも総合3位に入り、初めてメダルを獲得した。「もう、これで辞めてもいい」と充足感が身を包んだ一方で、心の底から喜べない自分がいた。
「完璧な演技じゃなかったんです。たった一つ、ジャンプでしてしまったミスがすごく悔しくて……。ここで辞めてしまってもいいかもしれないけど、もしかしたら、そのミスがこれからもずっと夢の中で出てくるかもしれない。あのミスがなく跳べていたら、同じ銅メダルでも潔く辞めていたと思います。だけど、銅メダルなのに最初、手放しで喜べなかった。そういう悔いを残して辞められないなと。それで、私の人生が変わりました」
そのミスは「運命だったのかな」と今となっては言う。「次の五輪も目指す」と公言できたのは、翌年の13年。ソチ五輪の1年前のことだった。