野球取材に見たフィギュア報道のヒント 引退した中野友加里がスポーツ記者になった理由
記者として触れたスポーツ、第一歩は「野球のスコアブック」のつけ方だった
テレビ局を目指すにあたり、記者を志望した理由には、かつての自分の“立ち位置”が影響していた。
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中野さんは「一人の選手がいて、ミックスゾーン(試合後のメディアの取材エリア)で記者の人たちがそれを囲んでいるじゃないですか。あの中の一人になりたいと思ったんです」と笑う。柵で隔てられた向こうに立っていた人が、記者が密集した柵の手前に立ちたいというのは、なんとも新鮮な価値観。しかし「選手だからできることがある」の視点は、一つの強みになっていた。
「選手時代には『こういう質問されたら嫌だな』『こういう風に聞けばいいのに』と考えながら、取材を受けていたので、自分が取材する立場になったらこんなことを聞きたいと思っていました。今、振り返ると記者の方々に勉強させていただいた感じです」
当時は翌年にバンクーバー五輪を控えていた。実際の面接では「五輪に内定したらどうするんですか?」と聞かれたこともあったが「たとえ、五輪が決まっても入社したらテレビ局員として頑張ります」と答え、縁に結ばれた。
入社後に配属されたのは、映画事業局の映画制作部。「アンフェア」「踊る大捜査線」など人気作のアシスタントプロデューサーを務めるなどバリバリと仕事をこなし、スポーツ局に異動が叶ったのは、入社3年目の10月のこと。
フィギュアスケート一筋で生きたスポーツ人生。取材する立場となって、ほかの競技に触れると驚いた。「こんなにも私はルールを知らなかったんだ」。テレビ局のスポーツ番組は当然、あらゆる競技を報道する。フィギュア出身であっても、ニュースを作る立場として幅広い競技の知識をつけなければいけない。特に、担当していた番組「すぽると!」は野球色が強い番組だった。
最初に格闘したのは、野球の試合中に展開、結果を記録するスコアブックのつけ方。野球記者の商売道具の一つだ。
「最初はヒットもゴロも同じに見えたくらいです(笑)。でも、そんなところから野球のルールを一つ一つ勉強し、分かってくると面白く感じ始めたんです。もちろん、理解するまでは大変だけど、だんだんと周りの記者の方々と同じような会話ができるし、ニュースの原稿も書くことができる。原稿が書けるようになれば、今度は現場に足を運ばせてもらうことができます」
元トップアスリートであっても、もちろん特別扱いはない。アシスタントディレクター、いわゆるADとしてスタジオでアナウンサー、解説者に水出し、合図出しなどの裏方仕事もこなし、体力勝負の日々。しかし、さすがは元トップアスリート。人一倍の「負けず嫌い」と「成長したい」という思いを原動力にして、スポーツのルールを熱心に覚え、取材する競技はどんどん増した。
特に、忘れられないスポーツの現場は2つあるという。
1つ目は競泳日本選手権。2013年に当時大学1年だった萩野公介が史上初の5冠を達成した大会を取材した。驚いたのは大会スケジュール。トップ選手は1日で2、3レース出るのが当たり前。「フィギュアスケートは1日1曲、それに集中する。でも、1日に複数の種目、泳法で及ばないといけない。よく集中できるな、と」。アスリート出身で、現場に足を運んだからこそ受けた刺激だった。
2つ目はラグビー日本選手権だ。当時は大学と社会人がしのぎを削る日本一決定戦だった大会。ルールは知らなかったが、先輩記者に学びながら観戦すると、のめり込んだ。「ラグビーはルールを知ると、すごく面白くて。昨年、ワールドカップ(W杯)が盛り上がる意味が分かっていたくらい。ルールを知ってみると、スポーツをひと味違って楽しめるようになるんだな」と振り返った。
現役時代はルールも知らなかった数々の競技に触れた。すると、フィギュアスケートを一つのスポーツとして客観視できるようになった。そして、それが今の中野さんを形作る大切なピースとなった。