福士加代子から「学ばせてもらった」 五輪で4度“共闘”の恩師、感謝とともに抱く悔い
福士の指導で「私自身が完全に守りに入っていた」
福士の凄さを永山氏はこう語る。
「福士くんの場合、日本選手権などで複数回、優勝していますけど、一度も同じ勝ち方をさせていないんです。レース5分前に、例えば『ここでスパートすれば勝てるから』という指示を出したとします。スパートしろということは、そこで勝負ということなんですが、多くの選手は理解力が少し乏しいのか、ただ前に行くだけで勝負を決定づける走りができないんですよ。そういう選手は結果が出ないことを私のせいにして逃げ場を求める。でも、福士くんはレース前、私の言葉を一瞬で理解し、それを実践して勝っていく。その勝負勘といいますか、勝負を決める強さは圧倒的でした」
だが、今にして思うと、悔いもあるという。
「福士くんは、私の指示通りに勝っていきますし、私も勝って嬉しいんですけど、途中から物足りなさを感じていました。もっと記録を出せたはずですし、そこにこだわっていた勝ち方から、いつの間にか勝てばいいというように順位を意識する走りになってしまった。彼女の高い能力を引き出すために強力なライバルがいてくれたらと思う反面、指導で私自身が完全に守りに入っていたのは大きな反省点でした」
トラックの女王と呼ばれ、幾多の記録と記憶を残してきた福士がマラソンに初めて挑戦したのは、08年1月の大阪国際女子マラソンだった。その際、永山氏は福士に何度も「やめたほうがいい」と告げたという。
「最初のレースは福士くん自身が走りたいというよりも、周囲の人に背中を押されて走った感じだったんです。私は、これまでトラックで結果を残してきた選手ですし、走るならインパクトの強いレース、例えば初マラソンで日本最高記録を達成するとか、とてつもなく高いマラソンを実現したいと思っていました。でも、いかんせん準備がまったくできなかった。20キロまでは行けたんですけど、そこから足がまったく残っていなかったですね」
レース展開は、30キロまでは2位集団を大きく突き放して走っていたが、急激にペースが落ちて失速。体力の限界を超えたせいか、長居陸上競技場に入る手前で転倒。トラックでも3度転倒して、フラフラになりながらゴールし、2時間40分の19位に終わった。
「初マラソンは、彼女がマラソンをちょっとなめていたのもあって、あんな結果に終わった。でも、彼女の凄さは失敗をした後、自分に鞭を入れて頑張っていけるところ。そこから3年以上、マラソンを走るまで間が空いたんですが、すごい負けず嫌いなのでマラソンに再挑戦するために、かなり準備、練習をしていました」