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サッカー名門校“中退”から英国留学へ 親友の1ゴールが切り拓いた指導者への道

2015年1月12日、17歳の塚本修太は、4万6316人の大観衆を呑み込んだ埼玉スタジアムのスタンドにいた。

サウサンプトン・ソレント大学(現ソレント大学)のサッカー学部に進学、英国留学中の塚本修太【写真:本人提供】
サウサンプトン・ソレント大学(現ソレント大学)のサッカー学部に進学、英国留学中の塚本修太【写真:本人提供】

【英国で“サッカー学”修得…23歳塚本修太の挑戦|第1回】負傷で諦めた現役生活、一時はボールを見るのも嫌になった

 2015年1月12日、17歳の塚本修太は、4万6316人の大観衆を呑み込んだ埼玉スタジアムのスタンドにいた。

 全国高校サッカー選手権決勝で、約半年前に中退した前橋育英の元チームメイトたちが戦っていた。前半で星稜に先制され重苦しい空気を一変させたのは、寮で寝食をともにして仲の良かった野口竜彦(現・ファジアーノ岡山)だった。大舞台で親友が同点ゴールを奪い、その2分後には逆転。残念ながら前橋育英は延長戦の末に再逆転負けを喫したのだが、塚本は目の前の熱戦に魅了され将来の進路を決めていた。

「育英の関係者には本当にお世話になりました。もし恩返しができるとすれば、指導者になることかな、と思ったんです」

 幼稚園からボールを蹴り始めた塚本は、わざわざ右利きを左に切り替えるほど中村俊輔(現・横浜FC)に憧れ、水戸市内でも勝てない中体連の部活から前橋育英へのサッカー推薦を勝ち取った。

 だが高校進学から運命は暗転し、蹉跌(さてつ)が連なる。膝を痛めて手術し、復帰すると手を骨折。ようやくピッチに戻ると今度は逆の膝にメスを入れることになり、とうとう医師から「サッカーに向いていない。別の道を考えたほうがいい」と事実上の最後通告を受けた。

 担当の櫻井勉コーチは学生コーチとして残る道も勧めてくれたが、もうボールを見るのも嫌だった。2年生の6月に地元水戸の高校に編入すると「それなら東大でも目指そう」と猛勉強を始める。中間、期末テストのたびに成績上位者が張り出され、どの科目も名前が出ないことはなかった。

 そんな塚本をサッカーの世界に戻したのは、前橋育英の仲間たちだった。辞めていった僚友と、その後も連絡を絶やさず、全国の晴れ舞台に招待した。一方で英会話スクールにも通っていた塚本は、ある時学校長に直談判し1か月間の公欠をもらって英国へ出発。FA(イングランドサッカー協会)レベル1(日本ではC級かD級に該当)の指導者ライセンスを取得する。そこで知り合った現地の指導者と話しているうちに、「英国にはサッカーを勉強する大学がある」ことを知り目標は定まった。

 行動は迅速だった。このままの高校生活を続けていたのでは「英語力が厳しい」と判断し、通信制に切り替え留学支援を目的とするNICに入学。1年半後の2016年9月には、サウサンプトン・ソレント大学(現ソレント大学)のサッカー学部(Football Studies)の生徒になっていた。

「英国の大学は3年制です。しかしインターナショナルの場合は、その前にFoundationという土台作りのような期間が設けられ、日本の高校で一定水準の成績を収めていれば入学ができて、この1年間の成績次第で専科に進むことができます」

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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