[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト

バドミントン素人監督の挑戦 「当たればラッキー」と言われた弱小県が変わった理由

かつて、そう揶揄されていた弱小県が、10年余りで全国大会上位常連となった地がある。「こんな遠いところまで来てくださって、どうもすみません」。癖のある、温かい訛り口調で迎えてくれたのは、武末昌也教諭。「あの県」を変えた張本人である。校内で「生徒指導部長」を担う“先生”は、放課後になると「バドミントン部監督」の肩書きが付く。その場所は――。

宮崎代表として1日開幕のインターハイに出場する日章学園メンバー【写真:荒川祐史】
宮崎代表として1日開幕のインターハイに出場する日章学園メンバー【写真:荒川祐史】

宮崎を全国区に変えた日章学園、柔道出身・武末昌也監督の13年間の真実

「あの県と対戦できれば、ラッキー」――。

 かつて、そう揶揄されていた弱小県が、10年余りで全国大会上位常連となった地がある。「こんな遠いところまで来てくださって、どうもすみません」。癖のある、温かい訛り口調で迎えてくれたのは、武末昌也教諭。「あの県」を変えた張本人である。校内で「生徒指導部長」を担う“先生”は、放課後になると「バドミントン部監督」の肩書きが付く。その場所は――。

 日章学園高等学校。中高一貫の私立校があるのは、宮崎県だ。しかし、バドミントンが盛んとは言えなかった、武末監督が来るまでは。「『なんでそんなに強くなったの?』ってよく聞かれるけど、自分でもよくわからなくてですねぇ……」。快活に笑った指揮官は、聞いて驚くことに、バドミントン未経験という。いったい、なぜ“素人監督”が宮崎県を変えられたのか。

 すべての始まりは時を遡ること13年前にある。2007年。日章学園にやって来たことが、県と武末監督自身の未来を変えた。

 日体大で過ごした大学時代まで、明け暮れたのは柔道。卒業後は鹿児島、熊本の高校で教員を務めた。生まれ故郷の宮崎で指導をしたい。そんな折、舞い込んだ話が、日章学園の教員だった。ただし、条件が一つ付いた。「バドミントン部の監督をやってほしい」。前任者の異動で空いた椅子を託された形だ。

 バドミントンは見たこともなければ、ルールもほとんど知らない。今だから言える本音は「選手たちが頑張って、自分もそれなりにやっていければいい」。時を同じくして始まった県のプロジェクトで強化した1期生の大器・渡邊達哉(現再春館製薬バドミントン部コーチ)が入学。「3年間だけ面倒を見てくれ」という学校側の願いを聞き、引き受けることにした。

 しかし、自分でも予想だにしない展開が待っていた。忘れられないのは、1年目の春の九州大会。八代東(熊本)の園田啓悟、嘉村健士という目下東京五輪候補に挙がる隣県の逸材を見て「ドライブが素晴らしく、なんてかっこいいダブルスだ」と圧倒され、魅了され、競技にのめり込んだ。ルールはネットで調べ、恥を忍んで選手に聞くことすらあった。

 能力が抜けていた渡邊が1年目から全国Vを達成。約束の3年間で輝かしい実績を残すと、監督に沸々と想いが芽生えてきた。

「“渡邊がいた時だけ強い日章学園”じゃ、自分が悔しい。強い選手に乗っかって、あぐらをかいているなんて思われたくない。なんとか、継続して魅力あるチームを作っていかなくてはいけない。そう思ってもっとやろうと」

 自ら志願した監督生活の延長。とはいっても、技術的な指導はできないまま。「自分は柔道出身だから」と練習に手押し車を取り入れ、「バドミントンもネットを挟んだ“格闘技”だ」と闘争心を植え付け、自分なりのカラーを押し出してはいた。ただ、それだけで真の強豪校にはなれないと理解していた。道を切り開くことになったのは、一つの発想だった。

 未経験の弱みを、強みに変える――。

1 2 3
W-ANS ACADEMY
ポカリスエット ゼリー|ポカリスエット公式サイト|大塚製薬
DAZN
ABEMA Jleague
スマートコーチは、専門コーチとネットでつながり、動画の送りあいで上達を目指す新しい形のオンラインレッスンプラットフォーム
THE ANSWER的「国際女性ウィーク」
N-FADP
#青春のアザーカット
One Rugby関連記事へ
THE ANSWER 取材記者・WEBアシスタント募集