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マラソンで転倒、靴を踏まれ… 「コケちゃいました」五輪の歴史に残る名言は「言い訳で…」意外な真実――マラソン・谷口浩美

スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

バルセロナ五輪でゴール後に中山竹通と話す谷口浩美さん【写真:産経新聞社】
バルセロナ五輪でゴール後に中山竹通と話す谷口浩美さん【写真:産経新聞社】

「シン・オリンピックのミカタ」#87 連載「あのオリンピック選手は今」

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第6回はマラソン・谷口浩美さん。1992年バルセロナ五輪男子マラソンのレース中の接触、転倒で金メダル争いから脱落し、レース後に「コケちゃいました」の名言を残して国民に爽やかな感動を与えた。レースだけでなく大会前にもアクシデントに見舞われ、絶体絶命の状態からたどり着いたスタートライン。“コケた”後の勘違いや帰国後に知った事実など、振り返ってもらった。(文中敬称略、取材・文=THE ANSWER編集部・瀬谷 宏)

 ◇ ◇ ◇

 大会最終日の1992年8月9日。気温31度というマラソンには酷暑といえる条件の中、スタートラインに立つと感謝の思いが込み上げてきた。

「何とかここに来られた。自分は幸せだ。諦めなくてよかった」

 一時は出場すら危ぶまれた。大会に向け恒例の100日前練習を始めたものの、開始から10日で右足中足骨を疲労骨折。入院を余儀なくされた。前年に東京で行われた世界陸上で優勝し、金メダルの有力候補として期待されていたエースの一大事が世に知れれば大騒ぎになるのは必至。日本陸連や医療機関は徹底して入院情報を隠した。

「もしかしたらバレていたのかもしれない。でも結果的に私の(入院)情報はメディアに出なかったんです。とにかく自分はスタートラインに立てるかということだけに集中していました。最初は2週間で治るよ、なんて言われていたんです。でも2週間経って帰れると思ったら『あと2週間ね』って(笑)。当然、私がダメなら補欠選手が出ることになるわけですが、病院の先生は『何としてでもスタートラインに立たせるんだ』って。だからスタートラインに立った時に、ありがたみを感じましたね」

 入院中も右足に負担がかからないトレーニングを重ね、退院後の練習で走れる体には戻っていた。スタートラインに立った以上、狙うのは金メダル。「作戦通りに走れば勝てる。自分のプランは間違っていない。勝負できる」。勝ち筋は見えていた。

 根拠はあった。故障前の3月、ともに五輪に出場する同僚の森下広一とカタルーニャマラソンの視察を行った。コースは五輪とほぼ同じ。実は大会前「バルセロナで金メダルを獲るのは森下だろう」と考えていた。

「自分は世界選手権を勝っていたけど、あれは東京の暑さのお陰でした。外国勢はそれに対応できなかったんです。そういうこともあって、当時は森下のほうが強いと思っていたので、どうすれば森下を負かせるかという考え方。モンジュイックの坂を上がり、40キロを過ぎたところで少し下りがある。そこでスパートすれば森下が諦めるんじゃないかと。勝つにはそれしかなかった」

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