今、部活で「痛い」と言えない君へ 体が壊れても日本一になりたかった大山加奈の願い
元バレーボール日本代表の大山加奈さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じ、「スポーツ界の勝利至上主義の弊害」について語った。前後編で届ける前編は「今、部活で『痛い』と言えない君へ」――。昔ながらの勝利至上主義、スパルタ指導により、子供たちが「勝ちたいから、試合に出ないなんてできない」「監督が怖くて正直に言えず、我慢している」と無理をする例が少なくない。
大山加奈インタビュー「スポーツ界の勝利至上主義の弊害」前編
元バレーボール日本代表の大山加奈さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じ、「スポーツ界の勝利至上主義の弊害」について語った。前後編で届ける前編は「今、部活で『痛い』と言えない君へ」――。昔ながらの勝利至上主義、スパルタ指導により、子供たちが「勝ちたいから、試合に出ないなんてできない」「監督が怖くて正直に言えず、我慢している」と無理をする例が少なくない。
大山さん自身、怪我との闘いで26歳の若さで引退した。その発端となったのは日本一を目指し、腰痛を発症した小学生時代。「もし、現役時代に戻れるなら、あの時代」というジュニア年代で、結果的に競技人生を縮める怪我をした理由とは。現在は全国を回ってバレーボール教室を行い、育成年代の怪我の予防などの活動に取り組んでいる大山さんから現役中高生へ、本音でメッセージを送る。
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大山加奈さんは“あの時代”の体験を迷うことなく告白する。
「小学生時代、日本一になることだけをひたすら目指し、プレーしてきました。肩が壊れようが、腰が壊れようが『私にトスを上げてきて』と思っていましたし、痛みがあろうがなかろうが関係なく試合には出続けると、私は思っていました」
小学2年生で始めたバレーボール。その経歴は輝かしいものだった。
周りより頭一つ抜けて背が高く、小学6年生で175センチあった。フィジカル差がものを言う年代で当然、その長身は重宝され、エースアタッカーとして日本一を達成。一方で、小学校を卒業する前には腰痛が出ていた。12歳の少女に、である。
「一番はオーバーユース(身体の一部に長期間負荷がかかり続けること)でした。小学バレーはローテーションがないので、打てる選手が一人いれば、その選手に全部トスを上げて勝てるバレーボールができてしまいます。まさにそんなバレーボールで、本当に一人でスパイクを打ち続けました。
同じ動作なので負担はかかるし、身体も未熟。支える筋力もなく、成長の途中で負荷をかけてしまったことが原因です。体を反る動きがつらくて、練習が終わると重たい痛みが出て……。監督には言わず、接骨院に行ったり父にマッサージしてもらったり、ごまかしながらプレーしていました」
なぜ「痛い」と言わなかったのか。理由はシンプルだ。「監督の勝ちたいという思いもありましたが、それ以上に私自身が本当に日本一になりたいと思ってやっていたので」。練習量は多くてキツかったが、強制されている感覚はなかった。
だから、つらくても休まなかった。「試合に出たかったです。勝ちたかったんです、とにかく」。しかし、結果的に小学生時代に始まった腰痛との闘いが、そのまま現役生活を通じた闘いとなった。
進学した成徳学園(現・下北沢成徳)中・高は、前時代的なスパルタ指導とは一線を画し、選手の健康と強化を両立させる指導方針。トレーナーに正直に腰の状態を伝えていたが、大山さん自身に「試合に出ない」という選択肢はいつもなかったという。
こうして、小・中・高のすべてで日本一になり、高3で日本代表デビュー。「パワフルカナ」のニックネームで一躍、全国区になった。卒業後は東レで活躍し、04年アテネ五輪に出場したものの、以降はネットを挟んだ相手より自分の腰と闘う時間が増えた。
10年6月に引退。一番の原因は腰痛だった。26歳のことである。
「結果的に腰痛が競技人生を苦しめる要因になったかと言われれば、その通りです。当時は日本一になりたいと思っていたので、それを達成することがすべてだと思っていました。あの時に日本一なんて目指してなければ……と、正直に今思うことはあります」
引退してから指導者はもちろん、多方面での活動的な印象が強いが、実は引退から10年経った今も日常生活に影響が残っている。
「もちろん、当時の痛みに比べたらなんてことはないですが、今も痛みがあり、長時間歩くと足にしびれが出ます。加えて、今、妊娠しているので、これからもっとお腹が大きくなった時、私の腰は持つんだろうかって。
産んだ後の育児もそうです。前かがみになったり、抱っこだったり、大丈夫かなという不安は持っています。もっと言えば、年老いてから私は立っていられるんだろうか、歩けるんだろうかって。ものすごく怖いです」
怪我との闘いは現役生活だけではない。無理をすれば、健康障害が引退後も続く。これが、大山さんが味わった現実だ。