プロ2年目で戦力外→8年後「社長」に 元Jリーガー中村亮が米国で見出した第二の人生
1993年の開幕から30シーズン目を迎えているJリーグは、これまで時代を彩るスターを生み出してきた一方、毎年多くの選手が現役生活に別れを告げ、人生の選択を迫られてきた。期待の大卒ルーキーとして2004年にFC東京に加入するも、怪我によりわずか2年でスパイクを脱いだ中村亮は、様々なキャリアを積みながら新たな生きる道を模索し、引退から8年後に起業。将来を嘱望された左サイドバックは、なぜ米国の大学に日本人留学生を送り込むビジネスに辿り着いたのか。その足跡を追った。(取材・文=加部 究)
「元Jリーガー社長のキャリア選択」第1回、出場ゼロで脱いだプロのユニフォーム
1993年の開幕から30シーズン目を迎えているJリーグは、これまで時代を彩るスターを生み出してきた一方、毎年多くの選手が現役生活に別れを告げ、人生の選択を迫られてきた。期待の大卒ルーキーとして2004年にFC東京に加入するも、怪我によりわずか2年でスパイクを脱いだ中村亮は、様々なキャリアを積みながら新たな生きる道を模索し、引退から8年後に起業。将来を嘱望された左サイドバックは、なぜ米国の大学に日本人留学生を送り込むビジネスに辿り着いたのか。その足跡を追った。(取材・文=加部 究)
◇ ◇ ◇
2004年、FC東京は左サイドバック(SB)の逸材の獲得に成功した。185センチ、長身のレフティーで、しかも飛び切りの駿足を誇る。日本大学選抜の一員としてユニバーシアード大邱大会(2003年)でも優勝を飾っていた。
彼に大きな期待が寄せられていたことは想像に難くない。当時FC東京は、原博実監督の下でダイナミックな両翼からの仕掛けを標榜しており、右SBには加地亮が君臨していた。もし新加入の中村が左サイドに定着すれば、滝川第二高校のOBがFC東京の両SBを担い、後に頭角を現す長友佑都は別の環境やポジションを選択した可能性もある。
しかし、将来を嘱望された大型左SBは、Jリーグのピッチに一度も立つことなくユニフォームを脱いだ。中学時代から痛み始めていた膝は、プロになって手術を試みても回復の兆しを見せることがなかった。Jリーガーの肩書きとともに過ごしたのは、わずか2年間だった。
ただし、彼は安直にセカンドキャリアを選択しなかった。時間をかけて遠回りをしながらもサッカーに替わる武器を探し、丹念に磨き上げ新境地を切り拓いた。
現在、中村亮は兵庫県神戸市に本社、東京都渋谷区に支社を持つ株式会社「WithYou」の代表取締役として日米両国を忙しく飛び回っている。
毎年約100人のサッカー留学生を米国の大学へ送り込んでおり「現地で繋がりを持つ大学は300校を超えてなお日々増えている」状態だという。
Jリーグでは大卒選手が約半数を占め、国際的には異例の高学歴を誇る。実際に古橋亨梧(セルティック)や守田英正(スポルティングCP)のように、大卒でも欧州に進出し、日の丸をつける選手が目につくようになった。だが中村は、日本のユース年代の選手たちに、国内の大学進学を凌駕する魅力的な可能性を提供している。