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海外留学で「言葉の壁」に悩む若い世代へ スロバキアで暮らした羽根田卓也の語学習得術

羽根田がスロバキアで最も苦労したこととは【写真:Getty Images】
羽根田がスロバキアで最も苦労したこととは【写真:Getty Images】

閉鎖的だったスロバキア人の心を開いたのは「言葉を喋ろうとすること」

――最初に最も苦労したことはどんなことでしたか?

「まずは言葉ですね。あとはスロバキア人独特の他人への警戒心。彼らは閉鎖的なところが凄くあるんです。アメリカみたいにウェルカムな雰囲気ではない。街自体がなんとなく薄暗く、以前は共産圏だったし、そんなに豊かな国でもない。気を抜くと、何かを盗まれたり危ない目に遭ったり、当時はそういうものがまだ残っている国でした。自然とあまり他人にはすぐ心を開かない。僕も行った当初はスロバキア語を話せなかったので」

――そういう中でカヌー選手として飛び込み、クラブチームに加入したわけですね。

「よく覚えてますよ。スロバキアに行った日、クラブハウスに行っても笑って歓迎する感じはない。真顔で、僕を舐め回すようにジロジロ見て。日本人が来ると聞いていたと思いますが、『よく来たね』のひと言も、握手もない。シャイという言い方もあるかもしれないですが。街を歩いても、明らかに汚い言葉で罵られることもある。豊かな日本で育った自分には知らない世界。そういう国や国民性もあるんだなと、不安にはなりました」

――警戒心が強いという国民性がありながら、どう溶け込んでいったのでしょうか。

「自分で彼らのコミュニティに飛び込んでいくしかないですから。自分からスロバキア語を覚えようとすること、喋ろうとすること。それが一番の突破口でした。英語を話すうちは、それなりには接してくれても、現地の言葉じゃないと伝わらないものがあり、どこかに壁ができる。しかも、誰もが英語を話せるわけじゃない。年配になると英語よりドイツ語が話せる人もいるくらいなので。そういう複雑な事情を持った歴史のある国でした。

 なので、スロバキア語を覚えよう、喋ろうとすることを始めたあたりから、彼らが徐々に心を開いてくれました。彼らも嬉しかったし、面白かったと思います。こんなアジア人がいきなりスロバキア語を話し出して。そこから一変して認めてくれて、一緒に練習も付き合ってくれたし、アドバイスもくれた。何より僕が彼らの言語で、彼らのアドバイスを理解できるようになった時が海外生活の中で一番のターニングポイントでした」

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羽根田 卓也

リオ五輪カヌー銅メダリスト THE ANSWER スペシャリスト

1987年7月17日生まれ。愛知・豊田市出身。ミキハウス所属。元カヌー選手だった父の影響で9歳から競技を始める。杜若高(愛知)3年で日本選手権優勝。卒業後にカヌーの強豪スロバキアに単身渡り、スロバキア国立コメニウス大卒業、コメニウス大学院修了。21歳で出場した2008年北京五輪は予選14位、2012年ロンドン五輪は7位入賞、2016年リオ五輪で日本人初の銅メダル獲得。以降、「ハネタク」の愛称で広く知られる存在に。東京五輪は10位。2022年1月、パリ五輪を目指し、現役続行することを表明した。175センチ、70キロ。

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