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女子ホッケー湯田葉月、豪州挑戦の理由 五輪落選後に下した「自分のために」戦う決断

リオデジャネイロ五輪での悔しい思いが湯田に「海外挑戦」を考えさせたという【写真:もろだこずえ】
リオデジャネイロ五輪での悔しい思いが湯田に「海外挑戦」を考えさせたという【写真:もろだこずえ】

東京五輪出場を目指し国内に留まることを選択

 転機となったのは、2012年。岐阜県で開催された、ホッケー女子日本代表のロンドン五輪予選だった。日本代表の友人の応援に駆けつけた湯田の中に、「自分も日本代表として五輪に行きたい」という気持ちが突然、沸き上がった。

「退部からずっと、代表でありたい気持ちも消えていました。でも、代表選手たちの戦う姿を観て、もう一度、代表を、トップを目指してやっていこう。そして、次のリオ五輪を目指そう、と思いました。五輪を意識したのは、この時が初めてです」

 試合後、湯田はコカ・コーラレッドスパークスの柳承辰監督に電話をかけた。柳監督は天理大ホッケー部を退部した翌日からずっと、「一緒にホッケーをやろう」と、声をかけ続けてくれていた。

「私も五輪を目指したい。入団させください」

 湯田は約2年ぶりに、ホッケー界の第一線に戻った。

 それから4年後の2016年リオデジャネイロ五輪。ホッケー日本女子代表『さくらジャパン』は1勝もできず、ブラジルの地で散った。湯田も、そのフィールドに立つ1人だった。

「すごく悔しかった。次の五輪では、絶対に結果を残そうと思った」

 そう決意すると同時に、『海外挑戦』が頭をよぎった。

「フィールドホッケーは日本ではマイナー競技。チーム数も少なく、限られた環境下でしかプレーできません。もっともっとスキルや経験値を上げるために、守られていない環境でチャレンジをしたかった」

 早めに海外に出たほうがいい。そう感じていたものの、すぐには行動に移せなかった。チームの主軸としての役目、そして、情。さらに自身の怪我も重なり、ズルズルと月日は流れた。

「そうしているうちに東京五輪が近づいてきて。『五輪の2年前からは、海外に出ず、代表合宿をメインにやったほうがいい』と言われ、国内に留まる選択をしました。

 でも、日本で東京を目指すと決めてから、気持ちは熱かった。絶対に東京に行くんや、そして次はメダルを獲るんや、という想いで、それだけを信じて、ずっとやってきました」

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長島 恭子

編集・ライター。サッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビュー記事、健康・ダイエット・トレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌で編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(中野ジェームズ修一著)など。

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