吉永健太朗のシンカーを忘れない 甲子園V投手が別れを告げた「人生を変えた」魔球
意外なシンカー誕生秘話と、独自の哲学「左投手のカーブを投げるんです」
2011年夏の甲子園。「日大三の吉永健太朗」と聞き、高校野球ファンに浮かぶ映像の一つは、シンカーではないか。
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大きな腕の振りから放たれた白球は、浮いた後で左打者の体に向かい、急速に逃げながら落ちていく。腰が引けたはずなのに見送れば、ストライク。打ちに行っても、バットに当てることができない。対戦したある打者は「左投手のカーブみたい」と言った。現代の野球界で決して使い手は多くない球種。「浮いて、逃げて、落ちる」シンカーこそが、吉永の最大の代名詞になった。
「自分で言うのもなんですけど、運動神経が良かったんです。試しに試合で投げたら、バットに全然当てられなくて『あれ? 意外と、いけるじゃん。なんか、凄いぞ』みたいな感じで。それが、始まりでした」
4歳で始めた野球。遊びで石を投げていたら、肩が強く、バドミントン選手だった父に野球を勧められ、7歳から少年野球に打ち込んだ。抜きん出た才能は、名門・日大三で花開く。きっかけは1年秋。カーブ、スライダーしかない球種にもう一つ加えようと、当時のエースだった1年先輩・関谷亮太(元ロッテ投手)がシンカーを投げている姿を見て、真似てみた。
誰かに握りも投げ方も教わったわけではない。完全なる独学。本人が言う「運動神経」はイメージの再現性の高さにある。「こう投げたら、こう行くのかな。じゃあ、こうしてみようって。そんな風にしていたら、どんどん理想の球に近づいて行って、気づいたら“珍しい球”になっていたんです」。こうして身に付いた“魔球”は、数々の強打者を手玉に取った。
現役時代では話しにくいだろうと思い、ずっと聞けないことがあった。どうやって、あのシンカーを投げていたのか。その問いをぶつけてみると、撮影用に持ってきたボールを取り出し、熱っぽく話し始めた。
「左投手のカーブを投げるんです」と言って、独自のシンカー哲学を明かした。話を要約すると、こうなる。左投手のカーブのリリースと、右投手のシンカーのリリースを一致させること。ボールを離す左手の人差し指と中指を、右手の中指に合わせ、ボールをかく。シンカーはボールの手前でかく投手が多いが、左投手のカーブみたいに「右手でボールの奥をかく」が秘訣だった。
「良い打者には初球から投げる。それでビックリさせて、ストレートで追い込み、もう1球シンカーを投げれば、終わり。打者の腰が浮く感じ、マウンドから見ると気持ち良かったんですよ」。周りに聞かれれば、惜しげもなく投げ方を伝授してきた。しかし、本人はいたずらっぽく笑う。「誰も投げられるようになったこと、ないんです」
誰も真似できないシンカー。だから、その軌道は今なお高校野球ファンの脳裏から消えない。本人は「シンカーが人生を変えてくれた」と感謝する。しかし、「変えてくれた」のは良い方向にばかりではない。
シンカーは吉永を苦しめもした。前述の「ボールの奥をかく」シンカーはリリースのポイントを遠くにして、初めて投げられる。それは「前を大きくする」という通常、模範とされる投球フォームのセオリーと合致した。だから「シンカーを投げられるフォームが正しいフォーム」と基準に置き、意識した。いや、正確には意識しすぎた。大学2年以降の不振の原因は、ここにあった。
「もともとフォームは安定しにくいタイプ。ちょっとずつ変わっている自覚があって、高校時代に戻ろうとしすぎていた。テイクバックばかりに気を取られた。それが、一番の間違いだった。がむしゃらに感覚で身に付けたものを頭で考え出してしまったら、投げられなくなった。考えられるけど、考えすぎてしまう。自分の良いところであり、それが悪いところでもありました」
当時の状況を「空想を追い求めているような感じ」と表現した。甲子園Vの光と影に苦しんだ。いつしか「勝負球」と聞かれれば、シンカーではなく、チェンジアップと答えるようになった。もう一度、光を求める道半ばで、野球人生は幕を下ろした。