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「今、僕はここにいるよ」 引きこもりを経て“フツーの青年”が世界記録を出すまで

リオデジャネイロ・パラリンピックで銀メダルを獲得した佐藤友祈(左)【写真:Getty Images】
リオデジャネイロ・パラリンピックで銀メダルを獲得した佐藤友祈(左)【写真:Getty Images】

魅了された「音」―風を切ることが何よりも気持ち良かった

 この舞台に立ってみたい――。情熱は心と体を軽くした。9月。地元・静岡の障がい者団体のNPO法人を訪ねて県内の競技者を紹介してもらった。最初は漕ぐために必要なグローブを作るところが始まり、レーサーは先輩から借りた。ものの1か月で、自分のレーサーが作るより早く12月のマラソン大会にエントリー。なぜ、それほどまでに熱くなれたのか。理由は「音」にあった。

「風を切れるんです。障がいを負って車いす生活になってから走ることはできない。当然、風を感じることもない。もちろん、引きこもっていたということもあって、余計に……(笑)。最初は時速10キロ出るか出ないかくらい。でも、風を切って、風の音が聞こえることが気持ち良かったんです」

 車いす陸上が自分を変えてくれた。「嫌なことからは逃げる性格だった」という。中学時代のバスケ部は球拾いに「こんなことやってられるか」と3か月で陸上部に移った。しかし、小学校時代は自分より速かった同級生に抜かれ、またも「やってられるか」と1年ほど幽霊部員になった。「しんどいことが嫌だったんです」と今となってはあっけらかんと笑う。

 しかし、車いす陸上だけは違った。引きこもり生活で体重は10キロ以上増え、最初は漕ぐだけで筋肉痛になった。生活用の車いすからレーサーに乗る時は補助がいないと不安で、うまくいかなかった。ただ、速い選手は時速30キロを超える競技。「ビュー」という音が何より心地良かった。やるからには目標は一つ。「4年後のリオデジャネイロパラリンピックに出ること」だった。

 もう一つ、運命を変えた出会いがある。順調に自己ベストを更新していき、翌春、ロンドンパラリンピック代表の松永仁志と出会った。バリバリのトップレーサー。会ったその日に「僕、パラリンピックに出たいんです、どうしたらいいですか」と訴えた。松永が選手兼監督を務める「WORLD-AC」に入り、拠点を岡山に移して鍛錬の日々を過ごした。

 車いす陸上は腕の筋力さえ付ければ、記録が伸びると思われがちだが、実際は技術力を問われる競技だ。漕ぐタイミング、リングを回すインパクトの瞬間にうまく体重を乗せないと失速してしまう。佐藤も「お腹のところに空間を作って、たまごを入れて割らないようなイメージで」と松永に技術的な助言を受けたことで、どんどん記録を伸ばしていった。

 そして、ついに悲願を叶える。16年リオ大会代表に内定。4年前、引きこもりだった自分が画面の中で見た舞台に立つことができる――。実際、リオの青色のトラックのスタートラインに着いた時、緊張が包む中でこう思った。「僕は佐藤友祈ですって、やっと名乗れる」と――。その想いを明かす。

「パラリンピックって、見たら“すぐに分かるもの”じゃないですか。パラスポーツを知らない人でも、ひと目見ただけで分かってしまう。それで、頑張っているなと応援してくれる人もいれば、面白そうだなと興味を持ってくれる人もいれば、可哀そうだなと同情のような目線で見る人もいる」

 次第に言葉に熱気を帯び、続ける。

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