私は絵になりたかった「日本には逃げ場がない」 努力重視の国でアスリートが闘わされる他人の欲求【田中希実の考えごと】

私は結果を出そうと躍起になりながら、誰に頼まれることなく走ろうとしてきた
まず現在偶然にもプロの日本人ランナーとして存在してしまっている私は、評価と結果の蓄積だけで己の血を通わせてきた訳ではない。結果を出そうと躍起になりながらも、よく考えればオリンピックも世界陸上もダイヤモンドリーグも駅伝も、誰に頼まれることなく気付けば走ろうとしてきたものだし、評価されないレースや種目にも好んで取り組んできた。
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私が海外へ、いや、走ることそのものへ逃げ、求めるのは、そして人間が絵や物語やスポーツといった文化を求めるのは、ただ憧れ故にではないだろうか。
絵や物語など、たとえ望む形にならなくても、形になって失われていくものでも、人間が心から求めるもの、憧れの集合体が文化だとしたら、結果と固執と金銭的な価値だけで、スポーツという文化は生き残ってきたものでないと言える。文化というものを生み出す人間も、それらを育む風土も、全て無機物の塊でないのと同じことだ。
ただその源となる、憧れというものの正体は、漠として掴めないのはどうしたことか。
純粋に、ただ体を動かしたい、応援したい、書きたい、読みたい、描きたい、見たい。これら説明のつけ難い、根源的な人間の欲求は全て同じ類のものであり、私が絵になりたかった憧れも、クローディアが秘密を知りたかった憧れも、元を辿れば同じ類のもののようだとは言える。
そして、人間が抱く憧れの対象は、絵や物語だけでなく、走りの中にもあり、無限の広がりをもっていると言えるのではないか。
しかしだからといって、それらは本当に、人間の憧れを見事に可視化していると言えるだろうか。メトロポリタンに並ぶ、頭や手足の失われた群像、時代ごとの流行りや雇い主の嗜好に合わせて描かれ、額のサイズに合わせて切断された絵画たち、そして世界中に星の数ほど存在する、廃版になっていく本の山。
そもそも作者の理想や憧れは、額や紙や数字の中に完璧な姿で閉じ込めておくことなどできないではないか。値段も本来つけられないはずではないか。日本人が努力をなんとかものにしようと努めるのは、楽しみが人間本来の憧れであるのと同時に、民族としての憧れが、努力そのものに向けられているからかもしれない。
巡り巡って、楽しみの中に、努力の中に、自分とは何者であるかを見出そうとしているのかもしれない。しかし憧れは永遠に憧れのままで、残念ながらものにすることはできないのだ。
もし数多の美術品や、そしてアスリートの中に、自らの求める憧れの断片や理想形を見出すことができても、決して完成形はなく、それらは人間の憧れの副産物に過ぎない。しかし誰もが、憧れの対象、憧れそのものになりたいと願ったり、お金を払ってでも享受したいと願うものだ。
これは人間の哀しい性なのだろうか。人間は、結局誰もが根無草なのだろうか。それとも、これこそが人間の可能性なのだろうか。知らず知らずに、人間はそのもの自体が憧れの集合体として、不完全なまま変化し続けているように思う。
ところで5thAveマイルは、実はメトロポリタン美術館の真ん前がスタートだ。
自分がこの前吐き出した、歩くのも億劫そうな人間が颯爽と走り去るのを見た時、METは何を思うだろう。
美術品の一つとして絵の中に閉じ込めてしまえばよかったと、やはり思ってはくれないだろうか。
(田中希実 / Nozomi Tanaka)