スポンサー収入を得る「プロのアマチュアボクサー」 岡澤セオン、社長たちを納得させた営業力
アマボクシング界に抱いた疑問「強くなる価値がそこにあるのか」
岡澤は「プロに行く子の気持ちもわかりますよ。『続けろ』という方が失礼で言えないです。正直、もっと夢がないとやれない」と理解を示す。報酬を得ず純粋に競技を楽しむ「アマチュアリズム」の考えもわかる。だが、何年も先のボクシング界を見据えると、憂いがある。
【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら
「昔のボクシング界だと全勝全KOの五輪金メダリストだとしても、所属先の固定給で生活をしないといけない。そこを誰が目指すんだ?って。強くなる価値がそこにあるのか。アマチュアスポーツは神聖なものだと言いますが、ボランティアでやっているわけでもないし、自分のためにやっているから対価が欲しい。返ってくるものがあればあるほど頑張れる。
最初にプロ活動を始めた時は制度さえできれば、将来的に全勝全KOの選手が出た時、ナイキやユニクロのロゴを付けて億を稼ぐ選手になれる可能性があるじゃないですか。自分がなれなくても、せめてその制度をつくりたかったんです」
自身は所属していた鹿児島県体協を2021年3月で退職。翌月から鹿児島を拠点にプロ活動を始めた。しかし、最初からうまくいったわけではない。練習時間を削りながら数十社へ挨拶に回っても、「え、なんでプロにならないの?」「プロなってよ。今はアマチュアでしょ」と言われることが多かった。
「もう飲みに行って、めちゃめちゃ語るしかない」と、社長たちにアマボクシングの魅力を熱く伝え続けた。理論的なトーク力と持ち前の人懐っこい明るさも“営業”を後押し。その中で最も強調したのは、個人スポンサーを求めているわけではないということだった。
「僕も応援してほしいけど、アマチュアボクシングを応援すると思ってほしい。この競技を一緒に応援してほしいんです。僕が稼ぎたいとかではなく、この競技を稼げる競技にしたいからこういう活動を始めてるんです。僕が今、日本で初めてやろうとしていて、もしかしたら後輩たちが続いていくかもしれない。大きなチャレンジなので、僕を応援するというより、そのチャレンジを応援してほしい」
徐々に心を動かし、同年夏の東京五輪前には地元企業を中心に約20社のスポンサーを集めるまでになった。今では遠征やケアの費用も自己負担。練習器具、食事面もランクアップでき、アマボクサーのロールモデルになっている。
日本ボクシング連盟は岡澤に充てるはずだった費用をジュニア育成や競技普及など、新たな活動に工面できるようになった。連盟内でも“セオンスタイル”の確立が願われている。
しかし、苦難の道のりは続く。「金メダルを獲れるように頑張ります」と宣言して迎えた21年東京五輪。まさかの2回戦敗退に終わった。「裏切ってしまった」。さらに階級区分変更の煽りを受け、4キロ重い71キロ級へ転向。自分のボクシングを見失うまで苦悩したが、アマボクシングの“聖地”ウズベキスタンの合宿でボクサーとして人生観の変わる出来事があった。
(17日の第2回「スポンサーを裏切った東京五輪敗戦、再起のアマボクサー岡澤セオンに吹いた逆風」に続く)
■岡澤セオン/Sewon Okazawa
1995年12月21日生まれ。山形・山形市出身。ガーナ人の父と日本人の母との間に生まれ、本名は岡澤セオンレッツクインシーメンサ。小、中学生時代はレスリングに打ち込み、日大山形高からアマチュアボクシングを始めた。3年時にライト級で全国高校総体5位入賞。中大1年時にライトウェルター級で国体3位、4年時に準優勝。就職先が内定していたが、鹿児島体育協会から国体に向けた強化指導員兼選手の誘いを受け、競技を続行。19年アジア選手権ウェルター級で日本人36年ぶり銀メダル。東京五輪ウェルター級(67キロ以下)2回戦敗退。21年世界選手権で日本人初の金メダル。24年パリ五輪は71キロ級代表内定。
〇…全日本選手権が21日から6日間、東京・墨田区総合体育館で行われる。24年パリ五輪の世界予選トーナメント日本代表最終選考会を兼ねた大会。岡澤は出場しないが、すでに同代表に内定した男子フェザー級・原田周大とともに中継のゲスト解説を務める。
(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)