上野由岐子は「世界一の投手」 “女イチロー”が語る鉄腕「後ろで守れるのは幸せ」
久しぶりにソフトボールが日本中を沸かせた。8月2日から12日まで、千葉県内で開催されたソフトボールの世界選手権。エース上野由岐子(ビックカメラ高崎)は同日の午前中の準決勝(兼3位決定戦)、中3時間半での決勝戦と1日で17イニング、249球の魂の投球が注目を集めたが、その背中をセンターから、感慨深い思いで見つめていた選手がいる。現役にして、上野と並ぶ、日本ソフト界のレジェンド、“女イチロー”こと山田恵里(日立)だ。
“空白の10年間”山田が競技を続けられた理由とは
久しぶりにソフトボールが日本中を沸かせた。8月2日から12日まで、千葉県内で開催されたソフトボールの世界選手権。ZOZOマリンスタジアムでの決勝戦で日本はタイブレークの末に米国に敗れ、準優勝に終わった。エース上野由岐子(ビックカメラ高崎)は同日の午前中の準決勝(兼3位決定戦)、中3時間半での決勝戦と1日で17イニング、249球の魂の投球が注目を集めたが、その背中をセンターから、感慨深い思いで見つめていた選手がいる。現役にして、上野と並ぶ、日本ソフト界のレジェンド、“女イチロー”こと山田恵里(日立)だ。
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【特集】「金メダルで恩返しを」 ソフトボール界の天才打者が持ち続けた想い / ソフトボール 山田恵里(GROWINGへ)
10年前、北京オリンピックでも同じ背中を見ていた。当時24歳の山田は決勝の米国戦で本塁打。完投した上野を援護し、日本に同競技初の金メダルを引き寄せた。しかし歓喜と同時に、ソフトボール界にとっては“冬の時代”の始まりでもあった。
北京五輪を最後にソフトボールが、オリンピックの正式種目から除外されることが決まっており、最大の目標を失った格好の選手たちの多くは、北京を最後に競技の第一線からは退いた。山田も例外ではなかった。「1番辛かったのは2009、10年。オリンピック以降の2年間くらいはずっともやもやした気持ちがありました。気持ちが入らないというか、何のためにやっているかわからない。目標を見失っていました」と振り返る。
無理もない。決してメジャースポーツではないソフトボール。オリンピックという最大の目標が消失してしまったのだ。それでも山田は“恩返しの気持ち”を支えに、競技を続けた。
「小中高生とソフトボールを続けている子はたくさんいて、そういう人たちのためにも頑張らなければいけない」という思いを胸に、上野と共に日本リーグで圧倒的な成績を残し続けたのだ。
運命の日は2016年8月3日。五輪への復帰が決まったのだ。「何度か復活のチャンスがあると言われていましたが、復活できなくて……。率直に辞めようと思ったこともありました。辞めなくてよかった。復活してすごく嬉しく思いました」と心からの思いを吐き出した。