ストイコビッチの美技が「人生を変えた」 引退から22年、Jリーグ名古屋に残した記念碑以上の痕跡
なぜピクシーには鹿島のジーコのような銅像がないのか?
豊田市にあるトヨタスポーツセンターには、名古屋グランパスのトレーニング施設とクラブハウスがある。スタッフに案内されて、天然芝のピッチの片隅にあるピクシーの記念碑を撮影することができた。金属のレリーフには、足型とサインと彼の代名詞である背番号「10」。そして現役時代の写真やプロフィールとともに、3つのメッセージ「Never give up!(決して諦めるな)」「Collective!(力を結集して戦おう)」「Have a confidence!(自信を持て)」が書かれてあった。
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1つのJクラブで選手と指導者として貢献し、それぞれタイトルをもたらした外国籍のフットボーラーは、名古屋のピクシーと鹿島アントラーズのジョルジーニョくらいであろう。
鹿島といえばジーコだが、現役時代のタイトルがなければ監督経験もない。しかし元ブラジル代表の10番は、今でも鹿島に多大な影響を与え続け、スタジアムには銅像まである。一方の元ユーゴ代表の10番は、今は半ば忘れられた感が否めず、記念碑はあっても銅像はない。
「確かに、そう言われてみればそうですね。あれだけインパクトを与えたのに、たまに話題になっても『そんな選手がいたねえ』という感じ。本当に、風のように去っていきましたね」
そう語るのは、長年にわたりクラブのエクイップ(用具係)を担ってきた、北野眞一である。Jリーグ開幕の1993年に名鉄運輸から出向し、2年後に名古屋グランパスに完全移籍。ピクシーの現役時代と監督時代の両方を知る、数少ないスタッフの1人だ。
「こういう取材を受ける時、いつも言うんですけれど、この仕事をするまでサッカーのことは何も知らなかったんですよ」と苦笑交じりで語る北野。それでも、現役時代のピクシーのプレーからは、凡百のJリーガーとは異なる「何か」を感じていたという。
「サッカーを知らなかった僕でも、ピクシーのパスには『なるほど、そうなるのか!』っていう納得感がありましたね。あと、試合中によく怒っていましたけれど、チャンスの瞬間はすっと冷静になって絶妙なプレーを見せるじゃないですか。今なら『アンガーマネジメント』って言うんでしょうけれど、どういう脳の構造なんだろうって、当時は思いましたね」
名古屋の監督時代、ピクシーは多くを語るタイプではなかったという。一言も発することなく、ロッカールームを歩き回るうちに、選手の間でピリッとした緊張感がみなぎる。とりわけ優勝した2010年、そうした光景を目にするたびに北野は「今日も勝てるな」と確信していたという。
「優勝が決まったのは、湘南ベルマーレとのアウェー戦でした。試合後、名古屋に戻って祝勝会があるということで、ピクシーから『君たちも絶対に来てくれ』と言われました。スピード違反にならない、ギリギリの速度で名古屋まで戻りました(苦笑)。奇跡的に間に合って、ビールかけしてもらいましたね。それまで天皇杯の優勝はありましたけど、リーグ戦というのは夢のまた夢でした。それがピクシーの監督時代に達成できたんだから、本当に感無量でしたよ」
その後の名古屋は、黄金時代とはならず、ピクシーが最後に指揮を執った2013年は11位で終了。セルビアに帰国する日、北野は中部国際空港セントレアで見送りに立ち会っている。「もっといい順位で送り出したかった」とは当人の弁。果たして、ドラガン・ストイコビッチは、名古屋に何を残したのだろうか。北野は少し考えて、こう答えてくれた。
「名古屋を含めた愛知県って、決してサッカーどころではなかったんですよ。そこにピクシーが来たことで、僕のようなサッカーにまったく関心がなかった人間でも、彼のプレーに魅了されたわけです。ピクシーは間違いなく、名古屋にサッカーを根付かせてくれたし、当時のピクシーを観て『サッカーをやってみよう』と思った子供たちも多かったと思います」