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日本人元J監督の「厳しさは称賛に値した」 1989年初来日、ブラジル人コーチの人生変えた出会い

横浜フリューゲルスで遭遇した興味深い戦術と人物

 ポンチ・プレッタ、サント・アンドレ、ゴイアスなどでプロのキャリアを重ねてきたエルシオは、34歳の時に川崎製鉄に加入し、最初の1年間は現役を続けた。だが翌年からはフィジカルコーチ、ヘッドコーチを経て、3年目には監督に転身している。

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「20歳くらいからいろんな監督やフィジカルコーチの下でプレーしてきて、言われたことをノートに書き込み知識を積み上げてきました。また現役の頃から、将来はサッカー界で働くことになると思ったので、体育大学へも通ってフィジカルの勉強をしました。サント・アンドレでは通算6年間プレーしましたが、リーダーシップを買われて監督になってくれと言われていたので、それが川崎製鉄で実現したことになります」

 川崎製鉄を率いて臨んだ1991年度の天皇杯では、初戦で全日空(横浜フリューゲルスの前身)を1-0で下し、次戦でもマツダ(現・サンフレッチェ広島)をPK戦の末に競り落としてベスト8に進出。この快進撃が、Jリーグ開幕を控えた横浜フリューゲルス初代監督の加茂周の目に留まった。

「実はラモス瑠偉から『フリューゲルスは、戦術や技術は良いのにフィジカルが足りていないので、そこを改善できれば強くなる』と聞いていたんです。当時加茂監督はゾーンプレスという興味深い戦術を駆使していたので、フィジカルは重要な柱の一つでした。結局、柱がしっかりしたことが良いチーム作りに繋がりました」

 実際にゾーンプレスは一躍注目を集め、やがて加茂は日本代表監督を託されることになる。一方でエルシオはフリューゲルスで、後の人生を大きく左右する人物と遭遇した。

「当時現役で活躍していたのが、現在はJFA技術委員長の反町康治さんでした。戦術的な意識の高さでも他の選手たちとは違っていた。また反町さんも私の仕事ぶりを見て、信頼してくれたのだと思います。アルビレックス新潟の監督に就任する時に『一緒に仕事をしないか』と声をかけてくれた。彼はフィジカル面を完全に私に任せてくれたので、私の裁量の幅は広かった。もちろん、それだけの責任も負うわけですが、新潟ではJ1への昇格も果たし、湘南ベルマーレや松本山雅FC時代も含めて反町さんとは8年間も一緒に働きました」

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エルシオ

元Jリーグ・フィジカルコーチ 
1956年2月19日生まれ。ブラジル出身。現役時代はMFとしてポンチ・プレッタやサント・アンドレでプレーし、89年に川崎製鉄サッカー部へ移籍。同年限りで現役を引退すると指導者としてチームに残り、ヘッドコーチや監督を歴任した。93年に横浜フリューゲルスにフィジカルコーチとして加入すると、その後はJリーグや母国ブラジルのクラブを渡り歩いた。特に横浜フリューゲルス時代に選手として指導した反町康治氏(現・JFA技術委員長)の下で何度も仕事をし、アルビレックス新潟、湘南ベルマーレ、松本山雅FCでフィジカルコーチを務めた。昨季はSC相模原でフィジカルコーチを担当し、現在は相生学院高校サッカー部を指導している。

加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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