日本で名将オシムと出会えた幸運 元J助っ人、“考えて走る”サッカーに「共感できた」理由とは
プロとして何より大切なのは「サポーターを喜ばせること」
旧ユーゴスラビアのセルビア、クロアチア、ボスニアなどは、母国ブルガリアと同じくバルカン諸国として括られるので、国民のサッカーへの嗜好は似ていたという。
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「プロになったら何よりも大切なのはサポーターを喜ばせること。ドイツや英国圏では、もっと走ってファイトするのを好むけれど、バルカン諸国では綺麗なサッカーが求められる。サッカーはすべて頭でするものだと考えられています。肝心なのは、頭を使って速く判断すること。考えて走るオシム監督のサッカーには、本当に共感できた」
千葉では加入初年度からリーグカップを連覇するなど、クラブ史上でも最良の時代を築いた。
「ブルガリアではセンターバックでも左サイドバックでもプレーしてきたけれど、やっぱり僕のベストポジションはリベロ(センターバックより自由度が高い)。いつでも攻撃に出ていくのが特徴だからね。当時の千葉は阿部勇樹、佐藤勇人、山岸智とか若い選手たちが台頭してきて、個人とチームが一緒になって成長した。マリオ・ハースやガブリエル・ポペスクとの関係もとても良かった」
2007年にはサンフレッチェ広島に移籍するが、最初のシーズンにJ2降格の憂き目にあった。
「当時ミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ/現・北海道コンサドーレ札幌監督)は、4-4-2で戦っていた。僕は2008年1月のキャンプから、毎日のようにミシャとたくさん話しました。千葉と同じようなスタイルを採るようにお願いしたんだ。もともとミシャも、オシムさんが監督時代のシュトゥルム・グラーツで、アマチュアの監督をしていたのでイメージは共有していたと思う。こうして広島も3バックで戦うことになりました。
千葉ではハースと巻(誠一郎)の後ろで羽生直剛がシャドーを務めたけれど、広島では最前線の三角形を引っ繰り返して3-4-2-1。ミシャは柏木陽介、槙野智章、青山敏弘、森脇良太など若い選手たちを引き上げて、ゆっくりとチームを成熟させていった。失敗も重ねたけれど、それはチームの成長のためには必要なことでした。結局、僕らはJ2で100ポイントも稼いで、2位に22ポイントの大差をつけた。これは凄いことですよ」