プロになった今、不思議に思う 田中希実、遊びと競技の曖昧な境目「あの頃の私はどこに」【田中希実の考えごと】
練習会を経て駅伝大会にも出場「楽しく走って、そこそこ速い自分たちを誇りに」
校内なんて井の中の蛙だと冷めていても、その校内基準に照らしたら、一緒に登校する班の子たちが、校内マラソンで各学年のトップを占めるほど、私の住む町内の子どもはどうやら特に足が速かったようである。放課後遊びで集まれば、マラソン大会ごっこと称して突然町内を隊列組んで走り出したこともあった。そうして自発的にただ走るという衝動が、子どもには普通のことなのか、大分変わった子どもたちだったのか、今となってはよくわからない。
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自発的に走るというと、小学校高学年の頃、同級生の発案で、私の両親をコーチに担ぎ上げ、毎週練習会を開こうということになった。
兵庫県の、北播磨というごく限られた地区内だけでの小学校対抗駅伝があるのだが、私たちにとってはそれこそ一大イベントであり、どうしても勝ちたくなったのだった。私たちの学年が主要メンバーになったからには、北播一の学校になってみせる! そんなご立派な大義名分はあったが、単に放課後もみんなと顔を合わせてわちゃわちゃしたいというノリも多分にあったろう。
ただ、その練習会が、友だちが友だちを呼んで何十人にも膨れ上がり、私たちの妹・弟世代、そしてまたその下の世代へと引き継がれていき、結局私の大学2年頃まで続いていたというのだから驚きだ。私たちのわがままに始まり、長年ボランティアをした両親はご苦労なものである。
おまけに、その時の練習会の内容は、とても鍛錬とは言えないものだった。
早く来た者からとりあえず公園を1、2周たらたら走り(1周約450メートル)、大体全員揃ったと見ると体操・動き作りを始める。この過程の間に必ず何人かはお腹が痛いとか足が痛いとか言い出す。その後に行われる1000メートルのタイムトライアルが練習会のメインなのだが、どういう訳か、それさえ終わればさっきまでのだらけ具合はどこ吹く風、負傷者たちもけろりと回復し、かえって勇み出す。
そして、みんなお待ちかねのリレーか鬼ごっこが始まるのだ。最後に坂ダッシュを一本入れて締めるのだが、もし母が海外マラソンに出た後とかで、土産のお菓子があった日には、勝った者から好きなお菓子を選べるということで真剣勝負である。
サボりは放置だし、お菓子で釣るし、1時間で終了する、なんともゆるーい練習会だが、それこそが私の自慢であり、こんなに楽しく走って、そこそこ速い自分たちを誇りに思っていた。このような奮闘努力むなしくと言うべきか、その甲斐あってと言うべきか、私たちは北播で2位になった。そして後年、妹世代がちゃっかり優勝していたというのも、私たちらしかった。