羽生結弦、荒川静香が“冬の時代”に終止符 仙台フィギュアを守り続ける阿部奈々美の願い
リンク閉鎖も仙台フィギュアを守るために奔走
仙台のフィギュアスケート界に「冬の時代」が訪れたのは、2004年のクリスマス。数々のスター選手が育ってきたリンク(当時の名称は「コナミスポーツクラブ泉・スケートリンク」)が、経営難を理由に閉鎖に追い込まれたのだ。閉鎖を機に長久保は愛知・名古屋に移住し、その後、本郷理華ら数名の教え子が長久保を追って仙台を離れた。
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阿部は閉鎖の3年前からこのリンクで指導に当たっており、仙台に残ったスケーターたちの育成を託された。冬は県内のシーズンリンクを使用し、夏は埼玉・川越まで出向くことも。川越のリンクで一般営業の時間に滑る場合は、ジャンプの練習ができないことも少なくなかった。仙台市内の公園に教え子を集め、2、3時間陸上トレーニングやランメニューで汗を流すこともあったという。
「滑れる時に、滑れるところで滑る。とにかく手探りで、必死でした」
仙台のフィギュアスケートを守るため、奔走し続けた。
2006年、光が見え始める。荒川がトリノ五輪で金メダルを獲得した年だ。再び仙台がスポットライトを浴び、同時に練習環境が悪化している実情に注目が集まった。一連の流れを受け、宮城県や仙台市の援助もあり、2007年3月に「アイスリンク仙台」としての営業再開が実現した。
再開後もしばらくは閑散としていたが、アイスリンク仙台が積極的に短期教室を開催するなど地道な努力を続けることで、徐々に受講者が増えていった。阿部の指導を受け、このリンクで実力を磨いた羽生結弦の存在も大きく、羽生の影響を受けスケートを始めた子供や大人は数知れない。
現在はリンク内にある4つのクラブで選手たちが日々研鑽を積んでおり、大人のスケーターも生涯スポーツとしてスケートを楽しんでいる。
ただ、競技レベルは全盛期には程遠く、日本のトップは関東、関西、中京の選手が多くを占めているのが現状だ。阿部は「同年代の選手や一緒に練習して刺激し合う仲間が周りにいることは、技術向上に不可欠だと思う。さらに競技人口を増やし、切磋琢磨できる環境を作りたい」と力を込める。