30年で「10→60」クラブに拡大 Jリーグが変えた日本スポーツ界と地方都市の風景
開幕戦を戦ったマリノスと消滅危機から生き残った甲府
国立競技場が新しくなって、初めて開催されたスーパーカップ。ここから30年前の、開幕時のまばゆい光景を想像するのは難しい。けれども、Jリーグが30年の間に積み上げてきた「厚み」のようなものは、この舞台に立つ両クラブからも、十分に感じとることができた。
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まず、横浜FM。言うまでもなく30年前、セレモニー後のオープニングゲームを飾った名門クラブである。開幕戦のカードは、ヴェルディ川崎VS横浜マリノス。「あれ、ヴェルディって東京じゃないの?」とか「なぜF・マリノスじゃないの?」というリアクションに対しては、往時を知る世代がきちんと説明する必要があるが、ここでは先を急ぐ。
ともに「オリジナル10」に名を連ね、同じ横浜を本拠とするマリノスとフリューゲルスの合併が発表されたのは、Jリーグ開幕から5年後、1998年のこと。合併に関しては、F側の親会社である全日空と佐藤工業の経営危機が指摘されていたが、実はM側の日産も厳しい経営状況にあった。クラブの人気も低迷し、前年の1997年の平均入場者数は9211人にまで落ち込んでいる(4桁はこの年のみ)。
対する甲府もまた、艱難辛苦の時代をくぐり抜けてきたクラブだ。こちらは1999年に創設されたJ2の「オリジナル10」。しかし、最初の3シーズンはいずれも最下位に終わり、2001年には44節のうち敗戦が34試合という最悪のチーム状況であった。
ただ、勝てないだけではない。練習環境も劣悪で、公営のグラウンドを日々転々としていた(クラブが優先使用できるクラブハウスと芝のピッチが完成したのは2013年)。加えて親会社を持たない出自ゆえ、深刻な債務超過を抱えたままJ2に参入。チーム存続が危ぶまれるほどの経営危機に、たびたび見舞われることとなった。
横浜FMも甲府も、それぞれに危難と雌伏の時代を経ての今がある。それぞれの歴史については、それこそ膨大な物語を内包しているため、ここではあえて触れない。ただ、国立でのスーパーカップという晴れがましい舞台に立つ両クラブに、私は「Jリーグ30周年」の厚みと重みというものを感じずにはいられないのである。
30年という月日は、多くのものを変えていく。人も、組織も、そして国のありようも。当初は10クラブで始まったJリーグも、30年後には6倍の60クラブとなった。しかも、北は北海道から南は沖縄まで、今では「Jなし県」のほうが少数派。そうしたなか、Jリーグはクラブとホームタウンを年々増やしながら、それぞれの街の風景を変えていったのである。