古豪・浦和市立で全国制覇 35年指導の高校サッカー名将が選手に伝えた勝利への執念
元Jリーグ監督の清水秀彦氏「好きなようにプレーさせてもらった」
インターハイ初優勝メンバーの柴田秀臣さんは、「あの頃は黄金期の卒業生が20人も30人もグラウンドに来ていましたからね、(OBではない)先生はずいぶんと気を遣っていたと思います」と当時の練習場の情景をオーバーラップさせた。柴田さんは在学中に4度全国大会に出場したが、「先生はウイングを主体にした伝統の攻撃を引き継ぎ、毎年のようにどの学年のチームも全国で上位に進出させました」とその手腕に感服する。
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守備の要人だった柴田さんには、相手に当たり負けしないことを口酸っぱく伝えたそうで、各選手に厳格で明確な役割分担を与えた。
71年度のチームは、インターハイ準決勝でまた藤枝東に1-2で屈し、第50回高校選手権では1回戦で佐賀北(北九州)を終始圧倒しながら、2本のシュートで2失点して敗退。その悔しさが翌年の強化につながり、守備力に磨きをかけたチームが、第51回高校選手権で4度目の優勝を遂げる。インターハイで2度苦杯をなめた藤枝東と決勝で対戦し、エースFW清水秀彦が決勝点を奪い、2-1で延長戦を制した。
Jリーグの横浜マリノス(当時)やベガルタ仙台などで監督を務めた清水さんは、「守備にうるさい先生でしたね。敵のエースをマンツーマンで抑え、特長を消してカウンターから僕がなんとかする戦術。先生には好きなようにプレーさせてもらいました」と懐かしみ、「(元名古屋グランパス監督の田中)孝司がパスを出し、守りは彼らに任せていた」と小島弘さんと高橋慎治さんの両DFに視線をやった。
小島さんは「クールで冷静、選手のことをよく考えてくれた」と語り、「主将だった私には『勝ちたいなら苦しい時に頑張るよう、仲間に伝えておきなさい』と言われたことをよく覚えています」と述懐した。
清水さんも「先生に怒られたことはないけど、大勢来ていたOBにはしょっちゅう叱られた」と笑う。
埼玉はこの後、高校選手権で2連覇した浦和南の第2期黄金期が到来したのをはじめ、73年のインターハイを制した児玉や武南の台頭もあり、浦和市立は正月の檜舞台から遠ざかることになる。
埼玉予選決勝で浦和西を倒し、11年ぶりに出場権を得たのが83年度の第62回大会だが、準々決勝で歴史的な惨敗を喫する。長谷川健太や大榎克己、堀池巧らを擁した清水東(静岡)に0-9で大敗してしまう。
2年生でこの大会を経験し、99年4月から磯貝監督の後継として第4代監督に就任したのが池田一義さんだ。19年3月まで指導し、高校選手権に2度、インターハイに3度導き、Jリーグ柏レイソルの戸嶋祥郎やFC今治の冨田康平らを育てた。
「先生の勝負へのこだわりは凄まじく、その一戦に懸ける準備も周到でした。対戦相手によって策を講じることなどせず、試合では練習での成果と成長を求められました」
池田さんの目には指導者としての磯貝監督がこう映っていた。