日本サッカーの聖地、埼玉スタジアム誕生秘話 候補地は21か所、なぜ今の場所に建設?
6万人超のサッカー専用スタジアムの建設には反対の声も
1996年5月31日に日韓共催が決まったことで開催都市縮小の危惧もあり、埼玉県は9月3日に6万人超の建設を正式決定した。しかし9月の県議会一般質問では自民、公明を除く議員から反対する声が相次いだ。
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県教育局生涯学習部スポーツ企画室長、県住宅都市部スタジアム建設局スタジアム企画課長だった羽鳥利明さんは、「着任したばかりの(96年)5月の臨時文教委員会ではスタジアム建設の集中審議があり、6月と9月の県議会でもサッカー場への質問に対応するのが大変でした」と苦笑しながら26年前を述懐する。
「何百億もかけて大会後は何に使うんだ」
「地域の競技場を整備するのが先決」
「4万としか聞いていない」
「専用サッカー場なんて初耳だ」
羽鳥さんと同じ96年4月から、スポーツ企画室などで従事した新井彰さんも「こんな質疑を繰り返し、質問攻めに遭いました。年間50試合しか使わないのなら、娯楽的な“にぎわい施設”をつくって収益を出すべきとの意見もありました」と、9月の県議会を懐かしそうに振り返る。
6万人規模のスタジアム実施設計補正予算はこの県議会で成立し、01年7月31日に「埼玉スタジアム2002」が完成する。
県は98年、“決勝戦招致100万人署名”活動を展開。10月28日には166万121人もの署名をW杯日本組織委員会に提出した。
埼玉県協会の星野隆之前副会長は浦和駅西口での署名運動中、「知人にはスポーツ文化の醸成が目的、と言って協力してもらった。この活動中にサッカー好きの県民が多いことを改めて実感しました」と話す。
決勝会場は横浜市に譲ったが、イングランド-スウェーデン、日本-ベルギー、カメルーン-サウジアラビアのグループリーグ3試合と、ブラジル-トルコの準決勝を開催。4試合で22万1363人を動員した。
96年12月25日、日本協会から開催地選出の電話を最初に受けた新井さんは、「ハード面であれだけ大きなプロジェクトは、県庁でもなかなかありません。大変だったが関われて幸せでした」としみじみ語る。
地権者との用地買収交渉も行った羽鳥さんの言葉は重い。「昔から埼玉はサッカー王国とか、スポーツ王国とか言われてきましたが、その割には立派な競技施設がありませんでした。埼玉スタジアムの完成で、世界に誇れる施設づくりに少しでも携われたことが誇らしい」と述べ、埼玉スタジアムが県民のレガシーとなり万感の思いに浸った。
(河野 正 / Tadashi Kawano)